■奈落・1  
□葉 2009/05/02(Sat)


姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き これを三回読んだら死ぬよ、と教えてくれたのは誰だったか…思い出せない。 「三回読んだら、じゃなくて、暗記したらだったかな…分かんない」 思い出した。綺麗な巻き髪の、ぱっちりした瞳のあの子だ―――名前は思い出せない。 聞いていなかったのかもしれない…どっちでもいいか。 あたしは物覚えが悪く、何事も皆からワンテンポ遅れがちなため、おつむが足りないとよく言われた。 そう言ったのは親だったか、学校の先生だったか、友達だったか…忘れてしまった。 暗いなあ。 どこだか分からないけど、ここは暗い。 狭いのか広いのかも分からない。そんな真っ暗闇の中、あたしはもうずいぶん長い事、ここに座り続けてる。 上を見上げると、そこには淡い光が見える。 …きれいだな、とぼんやり思う。 ここまでは届かないけれど、ほのかに青く揺れる光は夜の水面のよう。 深い海の底や井戸の底から水面を見上げたら、こんな感じなんじゃないかなあ。 誰に見咎められるわけでもないのにきちんと正座して、あたしは上を見上げ続ける。 そうしていると、何かを思い出せるような気がする。 何か、とても大切な事を。 (携帯)
■奈落・2 玄関の引き戸を開ける音で、来たなと思った。 「朝刊くらい取り込めよ、中で腐乱してるかと思うじゃねえか」 「―――さっきまで留守してたんだよ」 振り返るのも面倒だと居直る肩に、固いものを押しつけられる。 反射的に手をやると、細かい産毛がざらりと触れた。 「食べ頃なのになんで掘らないんだよ、田舎住まいは悠長だねえ」 「―――おい」 ひと抱えもある筍を台所へ持ち去ろうとする背中に声を投げる。 だが、裏の竹林はよその土地だと言っても耳を貸すような女ではない。 「アク抜きに使うのは重曹だったか石灰だったか―――そういや、六は?」 「仕事で日帰り出張、白藤堂の客んとこ」 「―――は」 暖簾の間から顔だけ寄越し、環はからかう。 「珍しく寛大じゃんか、お姉様……筋金入りの純タチに大事な大事な妹を預けるたあ、雪でも降るか」 「あんたに預けるよりゃ安心だ、それに…」 私は座布団を折り、先刻までそうしていたように畳に横たわる。 「女斬りも持ってった。いつものあれだろ」 「あ―……」 環は訳知り顔で首を引っ込め、台所の棚をガタガタいじり始める。 「一度、使ってみたいんだよなあ―――あの冷たい目にポン刀、色悪の極みで濡れてくる」 「直接目を見てあれにAV出ろと言ってみろ、叩き斬られるぞ」 「悪うござんしたね、AVで」 歯切れのいい啖呵が返ってくる。 「こちらとら、親父様の遺産で優雅に文筆業なぞやれる身分じゃござんせん―――  玉石混合どころか石オンリーの飯の種でも量産しなきゃあたちまちお陀仏、そんな悲しい身の上でしてねお姉様」 私は耳を塞いで寝返りを打つ。 気色悪いからお姉様とか呼ぶなと言っても、生まれた日付はそっちが先だと反論しても、乾いた笑い声しか返って来ないのは分かりきっていた。 妹が―――六道が居てくれれば、と密かに嘆く。 六道にせよこの環にせよ、私と血の繋がりはないのだが。
■奈落・3 ……縁もゆかりもない団体客の一人と間違われ、角部屋の座敷に押し込められた。 「ちょっと―――」 私は違う、と言いかけた鼻先で襖が閉まり、部屋の薄暗さと熱気に不穏なものを感じ取る。 座敷の狭さと内装のお粗末さから、普段は添乗員や旅行会社の人間にあてがわれる部屋だとすぐに気付いた。 照明は暗かった。 何人いるか定かでないが、二十人はいるだろう。 同じ柄の浴衣の背中が並ぶその奥で、見世物は既に始まっていた。 観客と同じ浴衣姿の女が三人、布団の上で絡み合っていた。 いや、一人の女に後の二人が絡みついているというのが趣向らしく、一人だけがやたらに幼い。 「いや……」 低く押し殺した声が作り物でないのは誰にでも分かる。 女―――少女は布団に横座りになり、左右から成熟した女二人に唇を寄せられ身をよじり、浴衣の上から身体をまさぐられている。 「やだ―――やめて……」 二人の女に唇と首筋を吸われて少女が顔を仰向けると、私は思わず声を上げた。 「り………」 ―――違う。私の見知っている顔ではない。 何人かに振り返られて睨みつけられ、出て行くなら今だと私は思った。 鄙びた温泉宿の枕芸など、嫌悪感しか感じられない。 だが、私は退出しなかった。 「いや、嫌……あ…」 少女は諸肌脱ぎにされ、両脇から乳首を吸われて喘いでいる。 やがて一人が背後に回って少女を抱き込み、一人が前にうずくまって脚を開かせ、裾を開いた。 「ああ……嫌ぁ…」 居並ぶ誰もが無言だが、部屋の熱気と湿気が上昇する。 少女を抱き込んだ女は背後から乳房をこねくり回し、前に這う女は客達に尻を突き出しながら少女の股間に顔を埋めた。 「……あっ、あっ、ああ―――」 最後列の私からは高まりつつある少女の喘ぎと、見知った者同士の観客の照れ隠しの忍び笑いや囁き声しか聞こえない。 けれども肌を吸う音や、指や舌の立てる濁った音が聞こえるようで、私は顔を背けた。 再び目を向けると、絡みは成熟した二人の女に変わっていた。 半裸のまま床柱にもたれかかる少女は未だ忘我の表情で、全身で絡み合い猛り狂う女達をぼんやり見つめている。 やがて二人の女が相次いで身体を引きつらせ、布団に倒れ込むと少女が動いた。 少女は細い腕を伸ばし、ぐったりした女達の髪を撫で、頭を抱き寄せた。 二人の女をうっとりと身を委ね、少女の剥き出しの乳房に頬ずりした。 私は、そっと部屋を出た。
■奈落・4 台所で、鍋がぐつぐつ音を立てている。 「人んちでAV観るなと何度言ったら―――」 「AVじゃねえよ。あんたも好きだろ、白蛇抄」 環はテレビの前に陣取って、スナック菓子を頬張りながら画面に見入る。 「…何度観ても、この時のルミ子は抜けるねぇ。素でお願いしたいもんだわ」 「抜く物もない癖に」 「お互い様だろ」 投げつけた座布団を投げ返し、環は鼻で笑う。 「―――『唖蓮』の短編、読んだよ」 ややあって、振り返らずに環が言った。 「面白かった。ネタで六部殺しはありふれてるが、六部が宿の者を殺して居座るってのはいい趣向だな」 「無理して褒めるな」 相手にせず寝て時間を潰そうと思ったが、そう言えばと口が動いた。 「深夜にVシネマ傑作選で、あんたの撮ったのが流れてたな」 「どれよ」 「八百屋お七が火刑に遭って、死骸を川に捨てられるやつ。ラストが良かった」 環はなおも振り向かず、 「メーカーには散々だった」 と呟いた。 ―――大体なあ、と同時に声が出た。 「抜けば終わりのAVなのに、無駄な凝りが多すぎるんだよ、お前のは」 「お前のは器用貧乏じゃなくて不器用貧乏じゃねえか、下調べも身につかないうちに分かったような講釈垂れやがって」 そして互いにムッと睨み合い、これ以上は不毛と黙り込む。 妹がいれば巧みに割って入る所だが、 さすがに三十路に達すれば、どちらにも無駄な体力を使わない分別が出来ている。 「ところで……」 不意に環が、思いがけない言葉を投げて寄越した。 「あんた、今朝方まで名古屋にいたんだろ。宿はどこだった?」 「はあ?」 私は眉をひそめる。 「六と一緒に、大須の佳乃ちゃんとこ―――PS3買ったけど繋げないってんで」 「骨董屋の本命の? その後は駅近の『西屋』じゃないの?」 探るような口調に不快感を覚え、私は声を尖らせる。 「何のお裁きだよ―――六は出張入るし、佳乃ちゃんは堅気勤めだし、そう長居できるかよ。  それでスパ銭寄って帰って来ただけ。確かに駅近だけど、そこじゃない」 「店の名前」 「東屋」 環は、無言で私を見つめた。
■奈落・5 ―――厭なものを見た… 早く帰りたいのは山々だったが、それよりもあの狭い部屋の湿った熱気がまとわりつく感じに耐え切れず、もう一風呂浴びる事にした。 屋内の大浴場には人影もまばらで湯の音しかなく、それだけでずいぶん気が休まった。 昼間からあんな見世物とは珍しい…と思い、いや昼間だからこそ他の客に知られにくいのかと思い直したり、 結局は「厭なものを見た」としか考えようがなかった。 身体を洗ってしばらく湯船に浸かり、ふと涼しさが欲しくなって露天風呂に移動した。 先客はいるようだが、巧みに配置された岩と木々のために気詰まりは感じない。 日の当たらない木陰で岩に座り涼んでいると、不意にはっきりと声が聞こえた。 「やめて」 そして水音。 目を凝らすと、岩陰に数人の白い背中が見えた。 私は備えつけの手桶を掴み、岩から降りた。 湯を引っかけられた中年女たちはバツが悪そうに、それでもしっかり悪態をつきながら出て行った。 見覚えのある少女は湯の中で身体をすくめ、怯えた目で私を見上げた。
■奈落・6 怖かった。 友達は皆、あたしを置いて帰ってしまった。 友達と言っても名前は知らない。繁華街では愛称でしか呼び合わないし、もともと街で知り合った仲間だった。 ほとんど皆、家には帰らず、出逢いカフェやインターネットカフェ、24時間営業の店で過ごしていた。 あたしはとろいし不器用だから、万引きの役には立たなかった。 見た目も綺麗じゃないから色気で稼ぐのも無理だったし、 ただ若いだけで重宝してくれるおじさんとかでなければ役に立たず、自分もそういうものだと理解していた。 だけど、こんな所に置き去りにされるとは思わなかった。 「怖がらなくていいのよ」 あたしの髪を梳き、メイクを直しながら二人のお姉さんは口々に言った。 「あなたは座って、ただじっと見てればいいのよ。そういう出し物なんだから」 全然違った。 お姉さん達はあたしに絡みつき、撫で回して裸にした。 最初は仰天した。気持ち悪くて、泣きそうだった。 でも、二人がかりで唇を吸われ、胸を揉まれて弄り回されるうちに、あたしは別の意味で泣いていた。 女のひとにされるのは初めてだった。唇も指も柔らかく、押しつけられる乳房もふわふわしていて、快かった。 乳首やあそこに触れる舌も柔らかく、触れられるうちに全身の力が抜けてしまった。 お姉さん達は優しかった。 でも、その後で囲まれたおばさん達は意地悪で乱暴だった。 「あんた、まだ子供じゃない? 人前でよくあんな事ができるわね」 そんな言葉を嫌味っぽく繰り返され、黙っていると「何とか言いなさいよ」と小突かれ、胸をぎゅっと掴まれた。 「やだ、乳首勃ててるわよこの子」 おばさん達はくすくす笑い、次々と手を伸ばしてあたしをまさぐり、お湯の中で弄り回した。 お姉さん達のような優しさは微塵もない、使い方が分からない機械をいじるような扱いにあたしは身をよじり、鳥肌を立てて抗った。 「やめて」 やっと声が出た次の瞬間、おばさん達が悲鳴を上げた。 あたしはひとつ、思い出した。 あたしはそこで、あの人に初めて会ったんだ。
■奈落・7 「あんたが西屋にいたんなら、東屋にいた私に会う筈ないだろ」 私は苛立ちを隠せない。 「仮に西屋にいたとしても何なんだよ、どうせ撮影に来てたんだろ? わざわざ邪魔しに行くもんか」 「撮影は夜のうちに済ませて現地解散。スタッフもほとんど残ってなかった」 そのスタッフの一人が私を見たと言っている、と環はつけ加えた。 「正確には、後から思えばあんただった、とね。その時は監督だと―――あたしだと思った、と言っている」 「見間違いだろ」 私は顔を背けた。 環とは血の繋がりはない。幼い頃を見知っているというだけだ。 でも、 「あの時のあんたの顔ったら」 と環は未だにからかうが、長く疎遠だった環との再会のきっかけは、私がAVに出ていると慌てふためいた友人からの電話だった。 環は当時、監督でも助監督でもなく、女優だった。 「不思議だよねえ。並べて見るとそうでもないけど、知らない奴は間違える」 お互いに不本意だが、取り違えられるのは子供の頃から。 私がAVに出ていると驚いた友人も、並べて見るまで信じなかった。 「それで両方の親父が誰だか知ると、空気が凍る」 どちらの父親も日本画家。ただし、世間の評価は真逆に別れる。 共通しているのは同時期に、一人の女をモデルにしていた事。 ただそれだけ。 「―――胴元は?」 湯の中でうずくまるあたしを見下ろし、あの人は呟いた。 「商売なのはあそこまでだろ。悪戯されないように庇って貰いな」 この人も見ていたのかと、あたしは更に縮こまる。 恥ずかしくて顔が上げられない。 「もう……いない」 小さな声で、それだけ言った。 「いない?」 訝しげな声が降ってきて、あたしは頷く。 「終わったから……帰っちゃった。皆」 しばらく、沈黙。 俯いているとやがてバシャバシャと水音が遠ざかり、ああこの人も行っちゃうんだとぼんやり思った。 しかし、またバシャバシャと音がして、頭からバスタオルをかけられた。 「先刻のおばはん達が外にいるから」 蹴散らして通るよとあの人が言った。
■奈落・9 「噴きこぼれてる」 立ち上がろうとするとシャツの裾を掴まれ、引き倒された。 「―――何だよ?」 「話の途中だ。逃げんなよ」 「逃げる理由がない」 蹴っ飛ばしてやろうかと思ったが、何とかこらえた。 過去に、ただ一度だけ、環とは取っ組み合いの喧嘩をやった事がある。 二十歳代半ばだからまだ数年前。 私が物書き、環がAVだけでなくVシネマも手がけるようになり、何とか日銭を稼げるようになった頃だ。 先に手を上げたのは私だった。 行き着けのスナックで、互いの友人知人の目前で環を殴り、足蹴にした。 環も負けてはおらずに足払いをかけ、平手どころか拳を振るった。 店内が阿鼻叫喚の坩堝と化したその時、それまで妹の六道や自分の身内を退かせ、 傍観を決め込んでいた骨董屋が間に入って倒れたテーブルを蹴り上げ威嚇しなければ、私達は互いに刃物を取っていた――― いや実際、環は割れたボトルを掴んでいた。 その店には骨董屋込みで出禁になったが、私達はそれ以来、あからさまに喧嘩を売り買いするのは控えていた。 しおらしく反省したから、ではない。 自己嫌悪からだ。 絵描きさんなの? そう尋ねると、あの人は微妙な顔をした。 確かに、部屋に散らばっているのは絵だけじゃなかった。 漫画の下描きみたいにコマ割りに絵と字を書きつけた紙とか、文章だけの紙とか、分厚い本とかで足の踏み場もなかった。 でも、その中には絵筆とか、小皿に入ったいろんな色の絵の具があり、ぱっと見には絵を描くのが仕事なんだなと思われた。 あの人は何も言わなかった。 気分を悪くしたのかとあたしは怯え、あの人から少し離れた床に腰を下ろした。 手元の書きつけに目がいく。 「……姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは―――」 読めない。 顔を上げると、あの人と目が合った。 少し疲れているような顔だった。 「これ、知ってる」 「へえ」 「三回読むと、死ぬって」 「何だ、それ」 あの人がちょっと笑い、あたしは安心する。 ―――姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐く。 ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。 鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総が気にかかる。 叩け叩きやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。 すらすらと唄うように、あの人は読み下した。 「あたし、読めない……」 そんなふうに、文字を見なくても暗記してるみたいには読めないという意味だが、あの人は少し勘違いしたようだった。 「この程度のが読めなかったら、これは無理だね」 あたしの膝に、ひらりと紙が舞い降りた。
■奈落・11 「……さる程に、阿波、讃岐に平家を背いて源氏を待ち受ける者共、あそこの峰、ここの洞より十四五騎、廿騎、うち連れうち連れ参りければ」 ―――判官ほどなく、三百余騎にぞなりにける… 環の呟きに声には出さずに続きを誦じ、迷わず合わせられる自分を疎ましく思う。 「何か、話がずれてるぞ」 「ど真ん中だと思うがね」 環の声に、いつもの人を喰ったような笑いはなかった。 「……滅びるか滅ぼすかの土壇場で、なんで射的なんかやったんだろうな」 ―――危ない、という自覚はあった。 六道はまだ帰らない。この女は遠慮はしない。私もだ。 「スパ銭の東西でごねたお次は耳無し芳一か? まともに話する気がないのはそっちだろうが」 「耳無し琵琶弾きは射的のくだりは演らねえよ」 環は座布団を蹴ってあぐらをかき、 「あの女を連れ出したのはあんただろ。返せよ」 と言い放った。 「……女?」 煮えかけていた頭が冷える。 「何言ってんだ、あんた」 「とぼけるな」 間髪入れずに環が言い返す。 「うちの若いのが見てたんだよ、西屋から連れ出しただろ。まさか、もう犯っちまったのか?」 「だから、西屋には行ってないって言ってるだろ?」 言い終わらぬうちに座布団が飛んでくる。私はそれを避け、言いがかりも大概にしろと吐き捨てた。 「女優に逃げられた八つ当たりならよそでやれ、いちいちうちに持ち込むな」 今度はDVDのケースが飛んできて、壁に砕けた。 「女優じゃない、まだ……」 環はそう言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。だが、歪みかけた表情は一瞬で、悪意そのものに変化した。 「―――うちに持ち込むなだと?」 効果を十分に知り尽くした嘲り笑いで、環は言った。 「昔っからあんたはそうだよな。手前を棚に上げての潔癖気取り、中身はあたしとおんなじ屑だろうによ」 環の顔をかすめて灰皿が飛ぶ。 当てる気がない事を知っている環は微動だにしない。 「……投げるなら当てろよ」 妙に沈んだ声で、環は言った。 「この年齢になると、いっそ存分に殴り合った方が楽な気がする」 私は応じず、開けた窓から庭を見やった。 幼い頃はこんなふうに二人して、庭で掴み合い殴り合い、派手に泣きわめく母たちを眺めていた。 そんな時は何処からか優しい手が頭を撫でて目を塞ぎ、生々しい諍いを見ないで済むようにしてくれた……
■奈落・13 「おいで」 あの人があたしを手招いた。 あたしは床に散らばる絵の道具や紙や本をなるべく踏まないように気をつけて、床にあぐらをかくあの人の脚の間に腰を下ろす。 「―――判官程なく、三百余騎にぞなりにける」 ゆっくりと穏やかに、あの人は呟いた。 「これは平家物語。物語に曲をつけて、琵琶を弾きながら謡うやつ」 背中から伝わる体温と、耳にかかる息があたたかい。 「今のはほとんど最後の方。平家の棟梁の清盛が死んだ後、  それまでは追われる側だった源氏が関東から京都に向かって攻め上り、平家一門は都を捨てて西へ西へと落ちのびる」 内容はあまり頭に入らない。でも、あの人はあまり気にしていないようだった。 「途中に何度も激しい戦闘があり、たくさんの兵士や武将が死ぬ。  騙し討ちや自害、捕虜になる者、とても酷い話を重ねながら、平家一門はついには海の上で追い詰められる」 あたしは懐に抱かれる猫のような思いで、ぼんやり耳を傾ける。 「―――耳無し芳一は知ってるだろ」 不意に問いかけられてあたしは驚き、慌てて頷いた。 それは何となく知っている。お経を書き忘れた両耳を、幽霊にちぎり取られるお坊さんの話だ。 「芳一を呼び出した平家一門の亡霊は、自分達が敗けて討ち死にしたり、  海に飛び込んだりする悲しい場面を芳一に繰り返し繰り返し謡わせる。  何でだと思う?」 あたしは、答えに窮した。 おどおどと振り返り顔を上げると、あの人は笑った。 「虚しいから」 淡々と、あの人は言った。 「人間は、死んだ後でさえ、物語がなければ虚しくて虚しくて仕方がないからさ」 虚しい? あたしには、意味がよく分からない言葉だった。 「分かんないかな」 あの人は少し困ったように呟き、前に屈んだ。 抱き締められると思ったが、あの人はあたしの背後から手を伸ばし、床に敷き詰められた紙を掻き分けた。 少し、物足りなかった。 「あんたにもあるだろ、ここまでの物語が」 ―――あたしはしばらく考え込んだが、あるような気はしなかった。 家に帰らなくなったのも、学校に行かなくなったのも、別に特別な事は何もない、ありふれた事情でしかなかったし。 「他人から見れば、どんな物語でもありふれたもんだよ」 あの人は呟いた。 「自分がそこに意味を見たくなったら、普通の人生でも物語になる。  で、深い意味を持ちたければ持ちたいほど、それは特別な物語になる……メロドラマとか、悲劇とか」 ―――ヨン様萌えのおばはんを見てみろよ、どれだけ恋物語に飢える奴が多いんだとあの人は笑う。 「物語を作ってるの?」 ちょっと混乱しながら、あたしは尋ねる。 たくさんの文字と絵―――でも絵を描く道具があるし、やっぱり絵描きさんに見えるのだけど。 あの人はしばらく黙り、あたしが不安になり始めた時にやっと答えた。 「物語に縋って、生きている」 独り言のような声だった。
■奈落・15 高岡秀生 久我芳雪 前者が私の、後者が環の父親だ。 「昔は気にもしなかったけど、何であんなに仲悪かったんだろうな。お袋様は」 「会わなきゃいいのに、どっちかが喧嘩売りに行ってたからな」 私の父と環の父は同じ師について日本画を学んだ同門だが、私の父が僅差で兄弟子の立場にあった。 環の父は破門されて野に下ったが、それでも住まいは近かった。 父―――高岡秀生と環の父の久我芳雪は取り立てて不仲という訳ではなかったが、親しく付き合う仲でもなかった。 浮世絵の名残りを色濃く残し、優美な画風で知られた父は、同じ画風でありながらも題材に扇情的な責め絵や無惨絵、 枕絵を選ぶ芳雪と関わるのを極力避け、破門後には黙殺していた。 「……それでも、女房子供が行き帰するのは止めなかったよな」 「口で止められた事はなかった」 私は子供心にも気難しく近寄りがたい父よりも、環の父の芳雪の方が好きだった。 凄惨極まる無惨絵や、白い肌に縄打たれのたうつ裸女を描く時でも、いつでも懐に猫を抱いていた。 端正で神経質な父とは違い、顔も身体もごつくて立ち居振る舞いも粗野だったが、飄々とした表情や物言いで他人を和ませる人だった。 「あんたの親父さんの方が、絵師としては上だ」 「贔屓がきついね。あのエログロの大家がか?」 「うちの親父にはあれは描けない。描きたくても、描けなかった」 父が環の父を黙殺したのは、それ故にだと私は思っている―――描く技量はあったのだ。描いて、自分の名前と共に晒す覚悟があれば。 「……うちの親父は、あんたの親父が好きだったよ」 環がいつか、ふっと漏らした事がある。 「だから、悪気はなかったんだ。自分も描くから、描いてみなよと言うつもりで……」 落款なしで、秀生とも芳雪ともとれる絵を描いた。 秀生の真骨頂とされる優艶な美人画は大きな賞を獲り、秀生作と見た画商が高値をつけた。 しかし秀生は自分の絵ではないとそれをはねつけ、既に転売先を決めていた画商と揉めに揉めた。 それが、数年に及ぶ真贋論争と訴訟沙汰の始まりだった。
■奈落・16 「馬鹿にされたと思ったんだな、あんたのお袋は」 これだけは、環と私は同見解だ。 「芸妓上がりのうちのと違って、あんたんとこのは士族の血を引くお嬢様だ。  発禁物御用達のエログロ絵師に、旦那の仕事を汚された―――そりゃあ腹も立つわな」 真贋騒動の直後だけなら、そうだろう。 しかしその後も延々と、よく飽きないものだと感心するほど、女の闘いは続いていた。 「……やれ芝居の席で肘打ちされたの、茶会で陰口叩いたの、目当ての反物を先に買われたの―――」 「火種は無尽蔵だったな」 大抵、私と環のどちらかが、どちらかの家に来ている時に修羅場が始まる。 どちらかの母親が飛び込んで来て、まずは矢合わせに罵声を交わし、太刀抜きにどちらかが平手打ち。 そしてどちらも勝ち名乗りを上げる事なく戦が終わる。 「当の親父共はそっちのけ。最初のうちこそ一喝したり宥めすかしたが、しまいには出ても来なかった」 「その頃には、自分らより上手い仲裁役がいたからな」 私も環も京都の生まれだが、意識して京言葉は使わない。 京言葉で罵り合うと互いに母を思い出すし、あれ以上の京女にはなれないという人を知っているからだ。 ―――背後から、あたしはふわりと抱き込まれた。 「いない、いない、ばあ」 あたたかい手に目を塞がれ、耳元に微笑みを含んだ息がかかる。 「……こうしてな、目ェを閉じといやす」 それまでとは違う、ふんわりした優しい響きの声がした。 「何のお話しましょうなあ―――お父はんが描いてはる、平家語りは知っといやす?……」 身体を預けて聞いていると、身体が溶けてしまうような心地になる。 背中に当たっているのは柔らかい乳房だと、あたしは唐突に思い出す。 ……諸行無常の理で幕を開け、鎮魂で結ぶ長い叙事詩。 一介の武士が帝を凌ぐ権力を持ち、美しい白拍子の姉妹は寵愛の頂点を極め、失い、 流刑者から関東の雄にのし上がった兄は、やがて自ら滅ぼす弟を都に放つ。 功労者でありながら同じ源氏から討たれる武将の想い人、女なれば生きよと言われた巴御前は、 「最後のいくさして見せ奉らん」と単騎で敵中に駆け、敵の大将の首級をあげひとり東国へと落ちのびる。 退けられた帝に仕えた俊寛は、せめて九州まで乗せてくれと孤島の波に船を追い、 船は去り、栄華を極めた梟雄は滅した者達の怨霊に焼かれ死に、いくさ場を離れて久しい、 貴種に変形した一族は、都を追われ西へ西へと、西方浄土へひた走る。 「身の悲しさは、読み人知らずと書かれしこと」――― 都落ちの際に和歌を託すも、清盛の末弟故に歌集に名を残せず討ち死にする平忠度。 源氏方の武将ではあるが平家の血を引き、我が子と同年ほどの平敦盛を手にかけいくさの非情さに慟哭する熊谷直実。 海のいくさの無残絵、貴人は軍船に、雑兵は貴船に。 しかし溢れる手負いの兵は味方に拒まれ、海にふるい落とされる。 幼帝を抱き海中に沈む二位の尼御前。 華麗な十二単をひるがえし、それに従う数多の女御。 「見るべき程の事は見つ」――― 船上で一門最後の武将となり、我が身に錨を巻きつけて、海底に消える平知盛。 死にはぐれた幼帝の母は父祖の罪業は子孫に報うと涙を流し、浄土をひたすら請い願う…… あたしはあの人の腕に抱かれ、あの人とは違う声を聞いていた。
「……主上今年は八歳にならせ給へども、御年の程より遥かにねびさせ給ひて御かたち美しく、辺りも照り輝くばかりなり……」 あの人の唇が耳の後ろに押し当てられ、吐息がうなじを撫で下ろす。 「『尼御前、我をばいづちへ具して行かむとするぞ』と仰せければ、二位殿、いとけなき君に向かひ奉り、涙を押さへて申されけるは、」 あの人は両腕であたしの肩を抱え寄せ、あたしの肩に頭を乗せてうなだれる。 「……『君は未だ知ろしめされ候はずや。  先世の十善戒行の御力によって今は万乗の主と生まれさせ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ給ひぬ』」 声は不思議な艶が消え、あの人の声に戻っていた。 あたしはこちらの声の方が好きだと思い、そう言いたいのだけど、いい言葉が見つからない。 「主上、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合わせ、まづ東を伏し拝み、  伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて御念仏ありしかば……」 振り向かなくても、あの人が目を閉じているのが分かる。 あたしの肩に子供のように頭を預けて、あたしと同じようにあたたかく、心地良いと感じていてくれればいいなと思う。 「……二位殿やがて抱き奉り、『波の底にも都のさぶらふぞ』と慰め奉り、千尋の底へぞ入り給ふ」 淡々と語りぬき、あの人はしばらく動かなかった。 内容はよく分からなかったけど、何だか無性に悲しかった。 黙っていると目頭が熱くなり、視界がぼやけた。 あたしを抱き込んでいた腕がふと上がり、指先があたしのまぶたに触れる。 その指はあたしの頬に降り、優しく顔を振り向かせ、唇と唇を触れ合わせた。
名は雪香。 本名のままで座敷に出ていた。 あのひとの手は白絹の滑らかさ。 あのひとの声は、口に含んだ途端に跡形無くとろける落雁の甘さ。 「脱いどくれ」 無造作に言い放つ親父の前に立ち、あのひとは短い音をたてて帯を解き、肩から一息に襦袢まで滑り落とした。 弟子や母は追い出され、画室には親父と猫ばかり――― うすく開いた障子の陰に、二人の子供がいたけれど。 「―――何でや」 そう呟いたのは私だったか友里だったか……しかしどちらでも同じ事。 ほんの数日前にあのひとは、友里の家に来ていたからだ。 「あんたとこの絵、終わったんか?」 「まだ」 囁き交わす言葉も余裕がない。互いの母以外に、双方の家で同じ女を見るのは初めてだったのだ。 私達は呆然と、こちらに背を向けて立つあのひとを見ていた。 一糸纏わぬ白い身体にはしみひとつなく、ほっそりしているのに輪郭が柔らかく、美しかった。 「そのまま、舞ってくれるかい」 畳にあぐらをかいた親父が懐手で呟くと、あのひとはすっと一歩退いて膝を折り、三つ指ついて場を定めた。 微塵の乱れもない動作だった。 三味線の助けもなく全裸で静かに舞うあのひとが、目を閉じれば今でも浮かぶ。 ……多分、生涯忘れる事はないだろう。 お前は女らしゅうない。 情の薄い所があると親父によく言われたが、淫画に責め絵に血みどろ絵を枕に育ち、 モデルと称する無数の女に遊び半分に子守をされて、どうしてまともな情を育めようか。 けれども確かに、私はどこか壊れている。 そうでなければ、乱闘の果てに庭石で頭を打って死んだ母の死に顔よりも、裸で舞うあのひとの思い出の方が鮮明な筈がない。
「―――最近、冷たいじゃない」 上京して7年目の冬だから、女優を廃業した頃だ。 「ここ辞めてよそで助監やるんだって?……ひょっとして、踏み台にはもう用無し?」 事務所の片隅で屈んでブーツを履く首筋を、背後から素足でつつかれる。 筋金入りの女好きで、起用する女優は寝てから決めると公言して憚らない女監督に、足掛け3年は身体を好きにさせていた。 「……監督が約束してくれたんじゃないですか。経験積めば紹介してくれるって」 足が臭えんだよ婆とは口にせず、私は声に媚びを含めた。 「言ったけど、何人かのおまけつきで紹介するとは言ってないわよ」 背後から触手のような腕が伸び、頭と腰を抱き込まれる。 この女監督の性癖を知る他のスタッフは、これが始まると別のフロアに避難する。 「他の連中が辞めるのは、私が誘ったわけじゃないし」 せっかく羽織ったコートを剥がれ、首筋を舐められながら身体を撫で回される。 はっきり言って不快だが、退社するまでは逆らわないのが筋だと思っていた。 「沈む船から逃げるのよねえ、鼠って」 大仰に音をたてて首筋を吸われ、背後からセーターをたくし上げられ、肌に爪を立てられる。 「だめ………」 我ながらようやるわと思いつつ、女優業とお務めで鍛えた甘え声が出る。 「捨てないでよ」 無理やり頭を後ろに向かされ、口に舌を突っ込まれる。 「ここで撮ればいいじゃない……何でわざわざ移籍しなきゃならないの…?」 ―――ここで撮っても、あんたの名前で売られるからだよ。 色狂いしすぎて撮れなくなったあんたの代わりに、何本撮ったと思ってるんだ…… (色も打算も、お互い様かもしれないな) それならいっそ清々しい。私はくるりと振り返り、喜びの表情を浮かべる女監督を居並ぶデスクの上に突き倒した。 しばらく付き合って分かったが、手荒に扱われるのが好きな女だった。 外まで追って来られるのも面倒だしとブラウスを破り、下着も剥ぎ取って投げ捨てる。 「優しく、して…」 口先だけはしおらしい。尖った乳首をひねり上げ、噛んでやるとたちまち腰をくねらせ脚を絡みつけてくる。 「もっと……」 頭を乳房に押しつけられ、乳首を責めろと強要される。 態度こそ強要だが喘ぎや身体のうねりに演技を感じ、 この人も卑屈になったと思えばなけなしの情が湧かない事もなく、私は指と舌とで奉仕をつとめた。
「環ちゃん、お座敷―――」 ドア越しに遠慮がちにな声を聞いたのは、手指が粘りつくのは御免だと、そこらにあった張り型を使っている最中だった。 「……助かった、感謝」 「あんたも大変だね」 事務所の若い娘はしみじみとそう呟くと、びっくりしたよとつけ加えた。 「何が?」 「だって環ちゃんが上にいるの知ってるのに、外から入って来るんだもの」 「……へ?」 訳も分からず階下の事務所に降りた時、私はしばし絶句した。 こんな所にでかい鏡なんてあったっけ?―――いや、服が違う。髪型も… 向こうも同じ思いのようで、顔を合わせた瞬間に、ぴくりと動揺したのが見てとれた。 今いる場所と私への微かな嫌悪が入り混じる目の中に、見覚えのある色がある。 「………友里……?」 にわかに言葉には出さず、相手は小さく頷いた。 その時自分が何を思ったかは分からない。 私は身体を二つに折って、弾かれたように笑い出した。
夢のように美しいだけでなく、不思議な人だった。 花に喩えれば桜とも藤とも、牡丹とも菖蒲とも言える。 口数少なく儚げでありながら、子供二人に和菓子を与え、物語を語る時には童女めいた華やぎが現れた。 「……また始まった」 私の家に来ている時は、子供の盗み見も叶わない。時には縄で吊したり、 絡みのために弟子が同席する環の父とは違い、父の画室は他者を拒絶していた。 「阿呆、また怒鳴られるわ」 庭から響く女の罵声より、襖に取り付く環の方が気が気でない。 「そんならあんた、あっち行ったらええやんか」 環は自分の家よりも、私の家の画室に執心する。何とか覗こうと苦心しながら、裾を引っ張る私の手を払う。 「―――やかましなあ」 時折、馬のいななきのように高まる罵声に顔をしかめる。 「せやけど、今行っても藪蛇やし」 どちらも声が枯れ、力尽きるまでは手出しはしない。環の家でもこちらでも、それがいつしか習いになっていた。 「―――先生、ちょっと……」 襖の向こうで声がして、空気が動く気配があった。 私達は慌てて襖の前から飛びすさって身を隠す。 すらりと開いた襖からあのひとが現れ、私達に目を向けてにっこりと笑いかける。 「……さ、目ェ閉じといやす」 慕い寄る私達の頭を撫でてほんの一時目隠しすると、白縮緬に花唐草を散らした御所解の振袖をひるがえし、あのひとは庭に向かう。 私の母も、環の母も普段から和装だ。 着こなしに堅気と粋筋上がりの違いはあるが、ひとしきり掴み合い脱力し、地べたに座り込んでしまえば襟元や裾の乱れは変わらない。 環は忌々しげに鼻を鳴らし、私はいつものように目を背ける。 あのひとが静かに母らの前に腰を折り、何やら語りかけながら、着乱れを直してやっている。 猛り狂った余韻に脱力する母達は、やがて幼児のようにしゃくり上げ、手を差し伸べるあのひとの胸に縋って身を預ける。 「―――またや。着物が駄目になる…」 不快感むき出しで環が呟く。 そんな光景を、果たして何度繰り返して見た事か。
父はあのひとをモデルに源氏物語の夕顔や空蝉といったたおやかな王朝の美女を描き、 環の父は玉藻前や鬼女紅葉、四谷怪談のお岩や累ヶ淵の累など、流血と情念にまみれた女を描き続けた。 描き上がった絵は子供などの目に触れる暇なく、弟子や画商に持ち去られる。 だから、描きかけでもそれをいかにして垣間見るかが苦心の元だった。 「子供の見るもんやないで」 環の父の芳雪は割に気前よく、描き上がった後なら画室に入るのを許してくれた。 「こんなん真似したらあかんで。儂が秀生はんに顔向けできんようになる」 今でも鮮烈に思い出す一枚は、炎に巻かれる天守閣で白装束の帯に懐剣をさし、 横座りの裾を乱して金箔を施された前夫・浅井長政の頭骨を抱きしめるお市の方を描いたものだった。 越前北庄城が落城する寸前を描きながら、現夫の柴田勝家を描き込まない意図に気付くのは後の事。 炎上する天守閣で虚空を見つめるお市の方に表情はなく、そのうつろな眼は見ていると背筋が凍るほどに他者を拒み、自己完結していた。 十になるやならずの私と環に父達の技量の程が理解できる筈もなく、主題となる物語さえ知らないものが殆どだった。 しかしなまじモデルも目にするために、この女性をどう描くのか。 この女性はどんな女御や姫君に昇華され、どんな毒婦姦婦に堕ちるのか――― ひとたび知った快楽を、更に更にと求めるような気持ちが常にあった。 それは環も同じだったと思う。 「―――あたしなら死装束を諸肌脱ぎにして、絵の端に刀の先を描く」 長じて再会した後に、環と話した事がある。 「目の前に現在の夫がいるって趣向か」 「これ以上の修羅場はないだろ。これから自害するってのに、かみさんが前の旦那のドクロを離さないんだぜ? あんたならどう描くよ」 「……肌は出さずに、他者は入れない。ただ、懐剣は抜いて片手に持たせるかな」 「分かりにくいなあ」 「あんたが過剰なんだよ」 そんなやり取りを交わせるようになったのは再会してさらに数年後、私に妹ができてしばらく経った頃からだ。
疲れた。 もう疲れた。 疲れたよ… 「―――あかん」 いつものように画室から出て、縁側から庭を見やったあのひとが息を飲む。 「先生、奥様が」 室内に短く切迫した声を投げ、あのひとは小走りに足袋のままで庭に飛び出す。 父が私達には一顧もくれずに後に続く。 私と環は縁側で、そう言えば随分前から罵り合う声や気配が止んでいたとようやく思いあたって顔を見合わせ、慌てて庭に飛び降りる。 庭の池のすぐ横で、私の母が呆けて座り込んでいた。 そして環の母が地面に仰向けに横たわり、頭の下と近くの庭石に、赤い顔料のようなものが飛び散っていた。 父は母の肩を揺すり、あのひとは動かない環の母に覆い被さり、せわしく声をかけていた。 地面に一枚の絵があった。そこにも僅かに赤い飛沫が染みていた。 青を基調にした、丈なす黒髪の王朝美女の立ち姿をぼんやり認めた次の瞬間、父が獣めいた呻きと共に土を蹴り、母屋に駆け出した。 「……見たらあかん」 あのひとが立ち上がり、呆然と立ちすくむ私と環を懐に抱え込む。 「目ェ閉じて、一緒にお家に入りましょう。すぐにお医者さんが来てくれはるから……」 救急車が来て庭が騒然となった時、あの絵は地面から消えていた。 寄越された弟子に連れられて環も帰り、父は後からやって来た別の救急車に母を乗せ、一緒に乗って行ってしまった。 庭には私と、あのひとだけが残された。 地面には、点々と飛び散った血だけが残っていた。 「見たらあかん」 あのひとはまた同じ言葉を繰り返し、私を胸に抱き寄せた。
厭だ。 もう厭だ。 ほとほと厭になった… 母の死因は表沙汰にならず、友里の家で脳卒中を起こした事にされた。 「お前は……」 病院から戻った親父は私に向かい、ほんの一瞬だけ凶暴な顔を見せた。 激昂すれば手が出る性質なのは知っていたし、殴られても仕方ないと覚悟していた。 だが、親父はすぐに言葉を飲み込み、黙って私に背を向けた。 言われるべき言葉が頭に浮かぶ―――お前は気付きもせんかったんか、母親が倒れて頭を打っても、よそ事に気を取られとったんか。 何故そう言わず、張り倒しもしないのか。私はそれを聞きたかったのに、岩のような背中に向かって口をついたのは全く別の言葉だった。 「……あの絵、持って帰って来たんか? お父はん…」 親父は答えなかった。そのまま荒々しく遠ざかる背中が、そのまま今生の別れだった。 母が病院で息を引き取った翌日に、親父は画室で喉を掻き切った。 私はその現場を見ていない。だが、畳も障子もさぞかし真っ赤に染まっていた事だろう。 最後の絵は手前の血で描いたか。 ある意味、本望だったかもしれねえな…… 友里の母はお嬢育ちに衝撃が強すぎたのか、無意識に正気に戻るのを拒んだのか、私が知る限りではそのまま病院から出る事はなかった。 知る限りではと言ったのは、それどころではなかったからだ。 親父はたいして財産も残しておらず、画室にあった絵は親父の死を買い時売り時と見た画商や知人に持ち去られた。 絵柄が絵柄だけに親戚付き合いも皆無に等しく、弔いを出すだけでも難儀した。 親父の弟子を含む大人達は忙しさに気を取られ、私が何も喋らないのも、促されなければ動かない事にも気付かなかった。 人死にの後の乱痴気騒ぎが一段落し、異変に気付いた大人が鳩首会談の末、私を病院に連れて行き、しばらく経つと今度は施設に預けて去った。 私は高校を出るまでそこにいた。施設を出なければならなくなった時、友里の父親から遺産分けの話があると知らされた。 友里の父親は病院で妻を看取って弔いを済ませ、画室ではなく寝室で縊死した。 私は遺産分けを断り、上京した。
「あんたの親父さんから、預かってる金がある」 事務所の玄関でひとしきり笑い続ける私を見つめ、笑い止んだ時に友里が呟いた。 「金?」 私は目尻に滲んだ涙を拭い、眉をひそめた。 「嘘だろ。自分の娘にも残さなかったのに」 「うちの親父に、あたしにと言って預けてた……あんたに会う機会がなくて、返せなかった」 友里は抑揚のない声で言い、目を反らした。 そういう所は変わっていない。いや、物言いも眼差しも、子供の時のままだった。 「で、何だよ。金に困ってAVに出てると思って、施しに来たのか?」 よく見れば違うが、知らない奴は間違える。 私の出た作品を見たか聞いたかして仰天して会いに来たというのが、友里には一番相応しい。 基本的に他人はどうでもいい性質なのだから。 「そうじゃない」 少し苛立ったように顔をしかめ、友里は意を決したように正面から私を見据えた。 「あのひとに、子供がいた」 何の事だか、最初は分からなかった。 「………いた?」 にわかに声に力を込める私に友里は頷き、あのひとが昨年に病死したと告げた。 「……子供が?」 「いま十歳。女の子だ」 私はなぜか放心した。 「祇園の置屋にいる。あのひとのいた店―――今はそこにいる」 友里は続けた。 「女将は代が替わってて、居心地良さそうには見えない。養子として引き取るのなら、落籍と同じにしろと言われた」 「十の子供を?」 思わず声が出る。そして友里が会いに来た理由に、何となく察しがついた。 「身請けしようってのか」 友里が頷く。 「……ちょうどあんたの消息が分かったから、会いに来た。あんたも気になるだろうと思って」 「親父の金で、足りるのか」 はっきり言って雀の涙じゃねえのかと思って尋ねると、友里は即座に言い返した。 「うちの親父が、あんたに遺した分もある」 「取っといたのか、律儀だな」 私は呆れて天を仰ぎ、それからふと理解する。―――金には困っていないだろうに、わざわざ筋を立てに来るとは何と律儀な…… 「分かったよ」 勿体ぶる理由はない。私は頷き、いつ上洛すればいいのか打ち合わせた。 「あんたの籍に入れるのはあれだけど、あたしには世間体がない。そこは呑むさ」 別れ際に尋ねた。 「なんて名前よ、その子」 立ち去りかけた友里は振り返り、短く呟く。 「六道」
■奈落・28 ―――来なければよかった…… 思い出すのも忌々しい、人生で一番寒い冬の晩だった。 直視もはばかるビデオの中より、顔を合わせた環は恐ろしい程変わっておらず、吐き気を催す程に私に似ていた。 昔からああだった。 いつでも相手の揚げ足を取り、嘲笑したがる性質だった。 わざわざ上京して雑踏にまみれ、それを確かめる自分を愚かと感じた。 (でも………) 心のどこかには、安堵があった。あのひとの遺児への態度、私になど会わぬと拒絶しなかった事……そうではない。 「……物書き?」 私の仕事を聞くと、環は一瞬ひどく心外そうな顔をした。 「あんた、美大に入ったんじゃなかったか」 「中退した」 「人生、棒に振ったな」 ―――あんたもな、とは口には出せなかった。 少なくとも環は映像を、目に見えるものを選んでいたから。 (それでも……) それでも、絵ではない。 それに安堵している自分が情けなかった。 「おねえさん」 雑踏の中でするりと腕に腕を回され、肩に頭を押しつけられた。 「やっと見つけた―――探したよ、事務所行ってもいつもいないし、携帯も繋がらないんだもん」 香水の匂いがきつい、堅気には見えない身なりの娘だった。 「―――人違いだよ」 「やだぁ」 娘は私の腕にまとわりつき、人目も憚らずに笑い声をあげる。 「水臭い事言わないでよ、何度も共演したじゃない」 ―――ねえ、と娘は続けた。 「来月から別のメーカーで助監やるんでしょ?  スタッフ連れて……あたしも入れてくれないかなあ、今の所じゃ先が見えないし、おねえさんのシナリオ好きだし」 言葉もなく、私は娘を凝視した。
―――秀生はんの娘御に。 ―――芳雪の娘に。 場所などもう覚えていないホテルで、私は娘を抱いた。 「約束してね?……」 娘は自ら服を脱ぎ捨て、私の首に絡みつく。 物言わぬ幼児になった母。絵筆を捨て身に纏った権威を捨て、医師から賄い婦にまで頭を下げて、母の下の世話まで厭わなくなった父。 「……あ…」 娘は私の腰に脚を巻きつけてベッドに倒れ、軟体動物のように身体をくねらせる。 私はベッドに散乱するバッグや服をなぎ払い、指先に触れた長いマフラーを掴んで娘の両手首を頭の上に手荒にまとめ、力を込めて縛りつけた。 ビデオの中で、相手構わず痴態を演じる環。 肢体を惜しまずカメラに曝し、犯されながら女の乳房に顔を埋め、秘所に埋め、獰猛な獣のようにうごめく環。 「おねえさん―――怖い……」 言葉とは裏腹に上気する肌に、私は容赦なく指を這わせる。 張りのある乳房をきつく掴んで爪を立て、赤く鬱血したそこに舌を当てる。 時々襲う恐慌についに舌を噛み切り、血の塊に喉を塞がれ、息が出来ずに死んだ母。 自室の天井から、力を失いだらりと垂れる父の脚。 「……ああ―――あっ、あ……っ」 喘ぎ声から演技が消える。 両手を戒められた娘は長い乳首弄りに声を上ずらせ、私に覆い被さられた下半身を激しく揺さぶった。 「だめ―――あたし……ああ…」 ―――秀生はんの娘御に。 ―――芳雪の娘に。 それほど情をかけるなら、なぜ生きてるうちにかけなかった。 実の娘にはなぜかけず、示し合わせたように他人の娘になぜかけた。 「あ―――あっ、あっ、あ………」 娘は身体を引きつらせ、私が突き出す拳を隠しどころに深く呑み込む。 仰け反る乳房に爪を食い込ませ、うすい血が乳房に滲む。 なぜ…… (知っていたからだ) 父達は、女房子供など眼中になかった。 ただ鬱陶しいだけの諍いが、取り返しのつかない結果に繋がるものとは考えもしなかったのだ。環の母が死ぬその時まで。 「ああ………っ―――」 娘が高く叫び、痙攣する。私は息を弾ませていたが、頭の芯は冷えていた。 父達は知っていて、そして悔いたのだ。 自分達が、その血を受け継がせてしまった事を。
■奈落・30 あの人が泣いている。 あたしは馬鹿だから、しばらく気付かなかった。 優しい、長いキスにうっとりしてしまい、このままもっと気持ち良くなれるような気がしてずっと目を閉じていた。 だから触れ合った頬が濡れるまで、あの人が声も出さずに泣いているのに気付けなかった。 「どうしたの」 焦って、あたしはあの人の目を覗き込む。 「あたし、何かした? 悪い事や、嫌な事……」 あの人は首を振る。 「ごめんなさい、あたし、頭悪いから……ごめんなさい」 あの人は首を振る。 あたしを助けてくれた時は凄く強かったのに、どうしてなんだろう。 そう思うとあたしも悲しくなった。大声をあげて泣くよりも、黙って泣く方が辛いかもしれない…… 「泣かないで」 うなだれるあの人の首に抱きついて、あたしは何度も繰り返した。 「あたし、どうすればいい?……教えて、何でもするから」 ―――何も、とあの人は呟いた。 「何もしなくていい」 何もいらない。ただ、こうしていてくれれば。 あの人はあたしの胸元に頭を預け、子供が縫いぐるみを抱き締めるように背中に腕を回した。
台所は、無惨な事になっていた。 「……やばい、六に怒られる」 「お前が引き止めるからだ」 いい年をした女が二人揃って炭化した筍を捨て、真っ黒になった鍋と噴きこぼれで水浸しの台所を掃除する。 「あ、馬鹿。鍋はしばらく外に干して乾かせよ」 「ガス臭え。あんたと心中するとこだったわ、気色悪い」 見る人間が見ればお互い様だろう。私も環も家事には向かない。それ以前に興味がない。 「……さて、第二ラウンドだ」 環は座敷にどっかり座り、疲れ果てた私を睨む。 「まだやるのか」 「やらいでか。女返せ」 「だから………」 私は溜め息をついて肩を落とす。 「だから、あたしはあんたが泊まった西屋には行ってないんだって」 「同系列ですぐそこじゃねぇか、東屋は」 環は平然と言い放つ。 「暗くて見えなかったが、あの狭い座敷にいたんだろ。このむっつり助平」 「どこの座敷だよ」 「西屋の二階の角っこの、ダニでも巣喰ってるような座敷。いかにもアングラ枕芸に向いた部屋」 すらすらと並べ立てる言葉が耳に入らない。 「うちの若いのが聞きつけてきて、冷やかしに行ったんだよ―――気が滅入るような、お粗末な見世物だったがな」 「あんたとこの女優の話じゃなかったのか」 投げやりに答えるとまた物が飛んできそうなので、私は興味のあるふりをした。 美人ではない。成熟した女でもない。が――― 「使えると思った」 環は呟き、僅かに身を乗り出した。 「だから先に興業主に掛け合ったんだよ、筋もんだと厄介だからな―――  何のバックもなく、女も適当に寄せ集めただけだと聞いて、会おうとしたら、いなかった」 「そこで、なんであたしが出てくるんだ」 私は首を振り、環に背を向ける。 襟を掴まれ、振り向かされた。 「うちの若いのが、風呂場からあたしとその女が出てくるのを見たんだよ。でも、あたしはその時、興業主と話してた」 私は環の手を払いのける。 「あんたに似てりゃ、皆あたしか?」 再び、今度は胸倉を掴まれる。 「そんな事じゃない」 一言一言を噛み締めるように、環は吐き捨てた。 「他の奴が目をつけるような女じゃなかった。あんた以外には」
……貧弱な身体つき、素顔を引き立てる役に立たない、濃いだけの化粧。 それなのに、娘が二人の裸の女を胸に抱き寄せた時、そこにあのひとが顕現した。 ……あれを何と表現すればいいのだろう。あのひとを思わせる女優達に同じ場面を演じさせても、幼い頃に受けた感銘は得られない。 修羅場に動じない胆力。あるがままに対象を受け入れる懐の広さ……そうではない。 あのひとの所作の一つ一つが鮮烈に記憶に残るのは、容易に言い表せないあのひとだけの資質によるものだ。 私はそれに気付いていたが、他の女を使って何度も再現しようとした。 大概は編集段階でカットしたが、一度だけ、キャットファイトを交えた乱交物でリリースした。 私と友里の母親を彷彿とさせる女同士の乱闘を、観客を巻き込んだ乱交に移行させる節目に、 あのひとを模したジャッジに女二人を抱擁させて、後日、それを観た友里に殴り飛ばされ、蹴りまくられた。 「―――恥知らずが」 友里が発した言葉はたった一言。 けれども、それで十分だった。 お互いに同じ光景を抱え込み、再現しようと足掻いている。 やれやれ、因果だな……
「……六がいるだろうがよ、あんたには」 恨めしげに環が呟く。 「そっくりじゃねえか、あのひとに―――確かにまだおぼこだが、あと数年もすりゃあまんまあのひとだ。他のを漁る必要なんてねえだろう」 「あんたにとってもそうだろうが」 私はうんざりと言い返す。何のためにわざわざ上京し、二人で六を身請けしたのか。 恐らく、同じものを表現したがっている。そう思わなければ持ち掛けなどしなかった。 さして仲睦まじくもないのにこうして時々上洛するのは六に会うため以外にも、目的があるのは分かっている――― 確認するためだ。 私が絵を描いているかどうかを。 「あんたなら、今すぐにでも描けるだろ」 事あるごとに環はそう言う。 「親父は元々、あんたの親父さんと同じ正道を学んでた。あたしにはそんな下積みはない―――でも、あんたは違う」 その度に、私は同じ答えを返す。 「無理だ」 環は素養がないと譲らぬが、技術だけなら私と同じ程度に描ける筈だ。 むしろ幼い頃は私より、正道をゆく父の画室に固執していた。 技量は後からついてくる。芯のない精緻な絵なら誰でも描けるが、見る者を惹きつける力は別の話だ。 情念、業、激情や諦観……技術以前に必要なものは私より、環にこそ備わっている。 AV専門の頃から、私はそう思っていた。 「描きたいんだろ」 互いに、そうは口にはしない。最初から分かっているのだから。 虚飾をかなぐり捨て浅ましいほどの醜態を繰り返す母達の前にひっそりと立ち、修羅の猛りを鎮めるあのひと。 見下しもせず媚びへつらいもせず、ただ静謐にそこにいたあのひと。 その姿を思う度に、一枚の絵が脳裏に浮上する。 タイトルは『青女』。庭で昏倒する環の母と放心する私の母の間にあり、そこから忽然と消えた絵だった。
あの人は淡い色の着物を取り出し、あたしの肩に着せかけた。 「立ってごらん」 言われるままに立ち上がり、帯はないけどきちんとした方がいいのかと思って前を掻き合わせる。 「そのままで」 あの人が短く言い、あたしは両手を下ろす。 さっきの旅館のみたいに安っぽくごわごわした浴衣じゃなくて、滑らかで綺麗な刺繍の入った着物だった。 明らかにあたしには不釣り合いなのに、じっと見上げられて冷や汗をかきそうだ。 「まっすぐに前を見て、肩の力を抜いて」 あたしは言われた通りにした。 紙がこすれるかすかな音と、墨の匂い。 ちらりと目だけ動かすと、あの人は広げた画布に屈み込んでいる。 やっぱり絵描きさんなんだ―――あたしはぼんやりとそう思い、あたしなんて綺麗じゃないのにと申し訳ない気分になった。 それでも、あの人が泣いてるのを見るよりずっといい。 気のきいた言葉も思いつかないし、何でもすると言ったのだから。 「―――舟の内より齢十八九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、  柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日いだしたるを舟のせがいに挟み立て、陸へ向いてぞ招いたる」 細い絵筆を走らせながら、あの人は流れるように口ずさむ。 「平家物語の巻第十一、『那須与一』の冒頭―――最後の戦いを控え、海岸から平家の船団を臨む源義経の軍勢は、  船団から一艘の小舟がこちらに向かって漕ぎ出すのに気付く。  その小舟の舳先には紅一色の中央に金の日の丸を描いた扇が立てられ、華麗な衣を纏った若く美しい女御が一人、乗っていた」 平家物語には白拍子や女武者、貴種の女御らが登場するけれど、最後の戦いを前に、 滅ぼされる平家から滅ぼす源氏に向けて差し向けられる一人の女御には、名前すら与えられていないとあの人は言う。 「……その人を、描くの?」 あたしは尋ねた。それにどんなに大きな意味があるのか分からないけど、きっと大変な事なんだろう。 「描けるなら」 顔を上げずにあの人が答え、すぐに手を止め、迷ったように首を振る。 「そうじゃない、描き切るつもりで……いや、何も考えず……」 そして荒々しく絵筆を脇に投げ、顔を覆った。 また要らぬ事を言ってしまったのかとあたしは焦る。 ……どうしてあたしはこうなんだろう。 言いたい事は分かっているのに、どうしてそれが言葉にならないんだろう。 しばらく逡巡し、これしか出ないと思った言葉をあたしは口にした。 「描けるよ」
『青女』。 最初は私の父の作とされ、後に鑑定家によって環の父の作品と判明した絵だ。 「どこに行っちまったんだろうな、あの絵」 思い出したように環が呟く。 最終的な所有者は描き手の環の父に落ち着いたが、彼はその絵を売らずに封印していた。 「あたしは、あんたを迎えに来た弟子が持ち帰ったと思ってた」 「お袋が持ち出したのさえ知られてなかった。あたしは、あんたの親父さんが拾って持ってると思ってた」 「家にはなかった。遺品の中にも」 真贋論争の後、環の父はともかく私の父を憚った業界人達は画集や記事から『青女』の存在を抹消し、 今では当時の記事を検索しなければ見られない。しかしそれすら、不鮮明なコピーでしかない。 「……うちのお袋が持ち出した気持ちは分かる」 それならば私にも分かる。潔癖で気位の高い私の母は、秘画を生業とする環の父を蔑んでいた。 その蔑みの対象であり、その妻を罵るネタの絵師が、自分の夫の真骨頂と賞賛される絵を描いたのだ。 それは環の母にとって、相手に痛恨の一撃を与え得る武器だったろう。 「……うちのお袋なら、切れる」 夫がどれだけ名声を得ようと、妻が偉くなったわけではあるまいに。 環の母も私の母も大差はない。どちらも愚かで、痛ましい。 若い頃は思い出すのも耐え難かったが、それなりに年齢を重ねた今なら多少は分かる。 母達にはああいう馴れ合いが必要だったのだ。画業にしか興味がない夫と暮らしていくには。 「殴られるのを承知で言うけどよ」 環にしては珍しく、小さな呟きを聞いた事がある。 「一種のプレイだったんじゃないかな、あれ……誰も止めなきゃ、やっちまってたんじゃないのかな……」 私はその時、聞こえないふりをした。 海の緑青、夕闇の群青、柳襲ねの衣の青と白。 濃淡さまざまな青一色の世界の中で、美しい女御は一人ひっそりと立ちつくす。 その表情から胸の内を窺い知る事は叶わない。 一族の滅亡を目前に、その目が何を見ているのかは分からない。 しかし、その身は既に深い海の底にいるようだ………
……単に軍記物、叙事詩という分類ではなく、平家物語は浄土思想の教科書だ。 全編に渡って盛者必衰の無常感に彩られ、そこから逃れる先は浄土しかなく、人はそれ故に念仏・仏に縋らざるを得ないのだとかきくどく。 寺社に納められた絵巻物や、漂泊の宗教者が持つ図画などと同じ事。 布教の材料として物語を利用するのは古今東西、いつでもどこでも変わらない。 友里が恐らくは私の作品を全部観ているように、再会してから私もずっと友里の作品に目を通している。 表向きの顔と同じく、友里の書くものは過剰な思い入れを感じさせず、端正だ。 どこかで批評されていたのを見たが、小説家と言うより民俗学者のような考察力に優れていると私も思う。 まめに地方を回り、伝承や風習を見て、文献を吟味していなければ書けないようなものを書いている。 正直、参考になる題材も多い。 でも――― (疲れねえか、あんた) 我が身を振り返りつつ、そう思う。 知識の羅列と物語を作るのは別の話だが、底の浅くない、容易に元ネタを透けさせない物語を紡ぐにはそれなりの知識の蓄積が要る。 創作には先人の模倣や影響がついて回るが、プライドのある創作者ほど容易にそれを悟らせない。 膨大な作品や知識を脳に抱え込み、そこから自分だけの作品を作らなければならない。 それは映像を生業とする私にも同じ事だ。あの大監督と同じカット割り、あの巨匠と同じ構図と言われるようでは駄目なのだ。 他人に模倣される時こそ本望、そういうものなのだ。 でもなあ…… お互い、回り道してないか? 面と向かっては言えねえよ、こっちも他人の事は言えないからな。 本当は描けるのに、描きたくないんじゃないのか。 あたしもあんたも。
「描けるよ」 そう言うあたしを、あの人は抱え込んだ。 「―――だめ」 優しく抱き締められるのは嬉しかったし、額や頬にキスされると気持ち良くて力が抜けそうだけど、今はそういう時じゃないとあたしは思った。 「だって……描きたいんでしょ?」 あの人は答えず、あたしの唇を塞ぐ。軽く吸い上げ、舌を絡められると頭がぼんやりしてきて、視界が霞む。 「だめ―――ねえ、駄目だよ……」 一生懸命訴えるけど、声に力が入らない。 あの人は時間をかけて唇であたしのささやかな抵抗を封じ、あたしの背中を支えていない方の手でゆっくりと胸を撫でた。 「……や……っ」 背筋がざわつく。あたしは思わず声を上げたが、自分でもはっきり分かるくらいに甘えた声だった。 あたしの肩から滑り落ちた着物を床に広げ、あの人はそこにあたしを横たえた。
(……他に、どんな生き方がある) 私を環だと思い込んでいる娘を手荒に抱いた時、自分はこういう人間なのだと痛い程思い知った。 愛する者も愛してくれる者もない。 ただ逃れたいものから逃れるためにあのひとの面影に縋りつき、再現できる筈のないものの復活を望んで生きている。 「無くしたものは、全く同じ形では帰って来ない」 元々は、一晩限りの相手を漁る店で眼を飛ばし合ったのが縁だった骨董屋から言われた事がある。 「いくら似ていても別人だ。重ねすぎたら、六が悩む」 自身も何かの埋め合わせに無原罪の娘に手をつけず側に置いている以上はあまり立ち入った事は言わないが、 それを無視して環と立ち回りを演じた時には、私と環以上の暴発を向けられた。 「―――盛るなら、よそでやれ」 唸りを上げて飛んできたテーブルの勢いに怯んだ時に、頭上から降ってきた冷たい声を忘れない。 最初は、何を言われたのか分からなかった。 床で環を押さえつけたまま顔を上げると、遠巻きに見守る友人知人の中に、どうしてよいか分からずおろおろと涙ぐんでいる六道が見えた。 我に返り視線を落とすと、恐らく私と同じ表情をしている環と目が合った。 ……それまで、考えもしなかった。
「だめ……」 言葉に意味はなく、ただひとりでに、言葉の形をした喘ぎをあたしは漏らす。 あの人はあたしの首筋に唇を触れたまま、はだけた胸元に手を這わせる。 「……だめ…」 あたたかい手で素肌に触れられると、息が詰まりそうになる。 そんなに大きくもなく綺麗な形でもない乳房をあの人の手が包み込み、優しく撫でられると身体の芯がむずむずしてくる。 「あ………」 あの人の身体がせり上がり、耳たぶをそっと噛まれてその後ろを舐められる。 あたしはぎゅっと身をすくめ、あの人の背中に腕を回した。 「………」 えっ? 今、あの人が何か言った。 あたしの名前?―――そう言えば、あたし、あの人に名前を言ったっけ…? あたしが密かにうろたえる間に、あの人はあたしの胸元に顔を寄せていた。 「―――あっ……」 鼻先が乳房に埋まり、あの人の息でくすぐられる。 身体をさらに縮める暇もなく片方の乳首に指がかかり、もう片方に唇が当たってあたしは気が変になりかける。 ……夕暮れなのかな、窓から差し込む光で部屋全体がオレンジ色だ。 それに何だか、風が強いような……
多分、再現できねえよ。 互いに憑かれてるけれど、考えてもみろよお姉様――― 親父達やお袋達みたいになりたくないなら、あの連中が創り出したものを再現できる道理がねえ。 家族を視界に入れない情の無さ、見栄も外聞もなく取っ組み合える自己中さ、 そういうものにどっぷり浸からなきゃ、見えてこないもんなんじゃないかねぇ。 ―――お姉様、お姉様……時折、一人の時に何となく、私はそう呟いてみる。 血の繋がりはないけれど、家族と呼べるのは友里くらいだ。 六は可愛いが、良しにつけ悪しきにつけ、同じ血を持っていると思えるのは友里しかいない。 ぶん殴られて半殺しの目に遭った時、会社を移った時にまとわりつかれて往生した女優の話をぶちまけてやろうかと思った。 ……見る目が無いにも程がある。そいつは薬中で手癖も悪く、私は関わり合いになりたくなくて避け回っていた。 そんな女にこんなふうに抱かれたんだと並べ立てられ、私はそいつを殴り飛ばした。 そして女が地べたに倒れて大声で泣き出した時、何に激昂したのか分からなくて茫然としたのだ。 ……ぶちまけたら、どうなってたかな。 あのお高く止まった骨董屋、あいつが邪魔しなけりゃあ、言ってたかもな。 『青女』を突きつけて致命傷を喰らったお袋と、同じ道を辿っていたのかも。 それでも、あの時は口より手足が動くのが早かった……と言うのは、方便か。 ―――ああああ、人生最悪の晩だった。 筋金入りのSだと思っていたのに……
―――なあ、考えた事ないか。 ―――何を。 ―――描けたら、その後はどうなる? ―――意味が分からん。 ―――分からない訳ないだろう。もう、やる事がなくなるんじゃないか? そのためだけに生きてきたなら。 ―――六がいる。 ―――あたしらがいない方が、幸せかもしれない。あんたもそう思ってる筈だ。 ―――描けたら、死ぬのか? ―――どうだろな、怖くはないけど。 ―――描けなかったら? ―――最悪の事をするんだよ。生き続ける。 ―――死にたいのか? ―――独りじゃ嫌だな ―――何が欲しい? ―――物語かな、生きていくための。
また、あの人が誰かの名前を呼んだ。 あたしには聞き取れない。 さっきのとは違う名前のような気がする。 「あっ……あ…」 あの人は優しく、それでも容赦なくあたしの乳首を舌で舐め、どんなに身をよじっても離さない。 「いや……」 その間も背筋を撫で上げ撫で下ろされ、こらえ切れずに立てる膝から大腿にも指が這い、抱え上げられる。 ―――微かな違和感。あたしのお腹の辺りで顔を上げたあの人が、何となく違う顔をしているようで、あたしは目を凝らす。 「やっ―――あ……」 けれどもすぐに下腹のさらに下に顔を埋められ、あたしは物を考える力を無くす。 「……ああ…あ…」 あたしは泣き声に近い声を上げている。 あの人は私の脚を肩に乗せ、怖いくらい真剣に唇と舌を動かしてあたしを喘がせる。 怯えて頭を押しのけようとするあたしの手を握り、身体の脇に繋ぎ留められる。 あたしはなす術もなく喘ぐだけだけど、あの人が凄い集中力であたしの反応を感じ取っているのが痛いほどよく分かる。 (なに………?) 下半身から駆け上る快感に身体を仰け反らせながら、あたしは目を凝らした。
―――突然、部屋の中にもの凄い風が吹き荒れ、部屋いっぱいに敷き詰められた紙や絵皿、絵筆が舞い上がる。 (…我が身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御供に参るなり…) ―――え、何? 誰が喋ってるの? あたしは慌てて辺りに目を走らせる。 吹き上げられ、舞い散るたくさんの紙しか見えない―――いや、見える。 見えない筈なのに、目の前に映画館のスクリーンがあるように、いろんな光景が見える。 西美濃の山の中、飢饉のさなかに稼ぎ乏しく里から帰った父の傍らで、二人の子供が斧を研ぎ、戸口いっぱいの夕陽の中で父に言う。 「殺しておくれ」――― 「だめ」 あたしは悲鳴を上げて腕を伸ばすが、その光景はかき消える。 磔柱に縛りつけられ、力なくうなだれる町娘。放火の罪で火に炙られ、 生焼けになった亡骸は川に投じられ、流れるままに水妖と化し、時空を超えて不実な愛人の子孫が浸かる湯船に浮上する。 ―――あたしは言葉も出ない。これは何なの? あの人は気にする様子もなく、怯むあたしを深く抱き込み、あたしの頭と身体を溶かし続ける。 ……白い砂利が敷き詰められた刑場で、白刃にも怯まず啖呵を切る女。 「どうせ落ちる首に顔布なんか要らねえよ。それより一目、あの人に逢わせておくれでないかえ、後生だからさ」 蔑まれ、旅から旅に疲れた六十六部が信心深い老夫婦に宿を請い、 惨殺して富と安住の地は得たけれど、知る者全て、子々孫々まで殺め続けねばならぬ定めに鬼と化す。 落城寸前の越前北庄城天守閣、 「汝はどこまで―――」 と声を荒げる現夫に向かい、自分を溺愛する兄によって滅ぼされ、金で塗られた前夫の頭骨を抱き締め、その非難を凛然と跳ね返すお市の方。 夫が織田信長に背き、自分ら一族郎党を居城に残して毛利領に亡命したと知らされた荒木村重の正室・荒木多志。 目まぐるしく現れては消える光景―――物語にあたしは目眩がした。 こんなにたくさんの物語を抱え込まなきゃならないの? そんな場所が、どこにあるの?…… (無いから) あの人がそう言ったわけではない。ただ、あたしを抱きながらそう言っているのが分かった。 (自分には無いから―――自分の物語は、見たくないから) あたしは、あの人をきつく抱き締めた。
あたしはあの人の頭を胸に押しつけて、力いっぱい抱き締めた。 「見ちゃだめ」 だって―――こんなの、耐えられない。 好きで見る映画やドラマとは違う。 自分のものでもない物語を、際限もなく溜め続けるなんて、疲れてしまう。壊れてしまう…… 波の音。 それに混じって、櫓の音。 あたしはそちらに目を向けた。 舟に乗った女の人だ。すごく綺麗で、お雛様みたいな綺麗な着物を着ている――― あたしははっとして視線を戻した。 あの人があたしの胸から顔を上げて、舟に立つ女の人を見つめている。 その手が床に伸び、転がっていた絵筆に伸びるのを見て、あたしは叫んだ。 「―――だめ!!」 自分でも、どうしてそんなに焦るのかが分からない。 でも、いけない―――描いてしまったら、何か取り返しのつかない事があの人に起きるような気がしてならない。 あたしは怯えた顔であの人と、舟の女の人を見比べた。 綺麗な人だ。 夢のように綺麗で、儚げで……でも、何かが普通じゃない。 当たり前かもしれない、絵の中に―――物語の中にしかいない人なんだから。 女の人は無表情のまま、すうっと片手を上げて手招きした。 あたしはぞっとする―――この人、あたしやあの人を見ていない。 目はこっちに向いてるけれど、あたしやあの人を透かしたもっと遠くをしか見ていない。
「だめだってば……」 あたしはあの人にしがみつき、絵筆を走らせるのを止めようとする。 しかしあの人は何も聞こえていないようで、しつこく縋るあたしは腕のひと薙ぎで振り払われた。 「だめだよ、ねえ、お願い……」 あの人の筆の進みは早く、みるみるうちに舟の女の人の姿が写し取られていく。 あたしは涙を流していた。 そのせいで視界がぼやけ、あの人の姿が二重にだぶって見える。 まるであの人が二人いるみたいだ。どうしたらいい、どうしたら――― 視線をさまよわせる先に灰皿とライターがあり、あたしはそれに飛びついた。 あの人は怒るだろうけど、きっとこうした方がいい。こんなふうに描かなくたって、もっと普通に描けると思うもの。 あたしはあの人の描きかけの画布をひったくり、火をつけて自分の胸に抱き込んだ。 熱いと思ったのは一瞬で、火に巻かれてしまえば気にならなくなった。 舟の女の人は知らない。 あの人が火柱を上げるあたしを引き寄せ抱き締めようとしたが、あたしはあの人を突き飛ばした。 あの人が抱き締めようとしたのがあたしだったのか、描きかけの絵だったのかは分からなかったけど、あたしは少し、嬉しかった。
「―――ふん」 私が放った財布から取り出したレシートを一瞥し、環は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「スーパーのレシートまで、主婦みたいに溜め込んでんじゃねえよ」 「何とでも言え」 投げ返された財布を文机に放り、私はごろりと横になる。 最初から見せれば良かったが、しつこく繰り返されるまで忘れていた。 「西屋も東屋も中抜けは出来ない。入店時刻と退店時刻しか残らない。知ってるだろ」 「信用したわけじゃないからな」 「勝手にしろ」 環に向けた背中に丸めたレシートをぶつけられたが、立つ腹も立たない。本当に、私は西屋には行かなかったのだから。 ただ…… 口にすれば話が更にややこしくなるだけだと思って黙っていたが、似たような出来事はあった。 東屋の二階の角部屋で、おおっぴらにはできない見世物を垣間見たのは本当だ。 環が見たと言う女二人と少女一人の絡みだったのも、その後に露天風呂でからかわれていた少女を庇った事も。 しかしその後、少女とは浴場の外で別れたきりだ。 興行主も帰ってしまったと言うその娘に、嘘かもしれないと思いつつ、幾らか渡してそこで別れた。 環があまりに見て来たような事を言うので、西屋から中抜けして東屋に来たのはあんたじゃないのかと何度も言いかけ、面倒になって止めた。 「……あんたは持ってないのか、レシート」 環は肩をすくめる。 「税金の計算なんざ、とうの昔に若いの任せだ」 気楽なものだと私は呟く―――あんたはいいな、掻き回したいだけ掻き回せて。 環は時々、東京からわざわざ、わけの分からない言いがかりをつけにやって来る。 慣れるまでは辟易したが、ひょっとしたらこいつは寂しいのかもしれないと思い、そう思う自分を老いたと感じた。 このまま更に年を取り、牙を抜かれ、永久に失われたものを再現できず、それを互いに受容する日が来るのだろうか。 考えた事もない。 考えたくもない。だが……
玄関の引き戸が開く音。 「ただいまぁ―――姉はん、お鍋、どうしやはったの?……」 無邪気な、語尾がふうわりした京言葉。 あのひとの娘。 私の……私と環の妹の、六道だ。 「イヤ―――何やのん、これ……」 食材の買い物でもしてきたのか、直行したとおぼしき台所から悲鳴が響く。 「やばい」 環が畳を蹴って立ち上がり、暖簾をくぐって台所に向かう―――どうせ私のせいにするのだ。 六道と過ごす時間が長い分、それくらいは目をつぶる。 畳に転がる紙きれを拾って屑籠に放り、私はふと考え込んだ。 別々の場所にいて、もしも自分達も知らぬ間に、同じものを見る事があるのなら…… 使えるかもしれないな。 ほんの一時の手間賃稼ぎ、一枚いくらの物語には。
―――姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐く。 ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き…… 他にする事もないから、覚えてしまった。 あたしは気付いたら、狭いのか広いのか分からない、深い深い真っ暗闇の底にいた。 ぼんやりと思い出した事を順序立てて繋ぎ合わせると、どうやらあたしは死んだみたいだ。 あの人はいない。いないって事は、死んだのはきっと、あたし一人だ。 火の勢いが強くなった途端に分からなくなったけど、突き飛ばしたあの人は死ななかったんだ。 良かった。 描きかけの絵を燃やしちゃったけど、あたしはこれでいい。 あの人が生きていれば、それでいい。 ……暗いなあ。ここは暗い。 ずうっと上の方には、仄かに青く揺らめく光がある。 今なら分かる。あれは水面だ。 どこかから、木の軋るような音。 舟を漕ぐ音かな。 死んだら舟に乗って、川を渡るんだったっけ。 ―――別に、乗らなくてもいいや。 川を渡るより、海の底にいると思ってる方が気持ちいい。 あたしはあの人が描こうとしてた舟の女の人みたいに綺麗じゃないけれど、海の底にいるみたいだったあの女の人に、なれるような気がするから。 それに確か、川を渡るにはお金がいるよね。 あたし、持ってないし。
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