■幸せの法則  
□秋 (2005/08/02(Tue) 15:12:20) 

 この夏、友人が母になると言う。 


春が訪れた頃、久し振りに顔を合わせた彼女は、穏やかな表情で少しばかり目立つお腹をさすっていた。 
その様子を見て、あぁすでに母親の顔をしている、私も自然と笑みがこぼれ、彼女の腹部にそっと触れた。 
子供嫌いの私が、その温かさに思わず目頭が熱くなって。 
無事に産まれてきてくれよ、そう素直に思ってしまった。 
彼女はそんな私に何も言わず、ただただ微笑んでいたっけ。 



七月の半ばが予定日だよ。 
そう告げられたのは、初夏の陽射しを強く感じるようになった頃の事だった。 



「子供産むんだって?友達」 寝ているものだと思っていた六つ年上の彼女の声に、私は読んでいた雑誌から顔を上げた。 見れば、タオルケットにくるまったままベッドで寝転がっている。 私に背を向けた格好で。 床のラグマットの上に突っ伏していた私は、再び雑誌に目を落として、 「うん」 短く返した。 「アヤの大学の友達だっけ」 もう一度「うん」と頷き、 「もう辞めたけど」 付け加える。 そう、昨年の今頃に友人である彼女は大学を自主退学した。 彼女の家は少しばかり複雑でその関係がごたごたしていただとか、一回り年の違う彼氏と結婚するだとか、それを家族に反対されていただとか。 事情は色々あるけれど。 どんな理由であろうと彼女自身の意志でそうなったのだ。 決して軽い気持ちからではない事は、私にはわかっていた。 だから退学届けを出す前の彼女にそれを聞かされた時、 「そっか」 ただ、そう一言だけを答えた。 「驚かないの?」 彼女は拍子抜けしていたけれど。 私には関係のない事だし。 それは突き放しているわけではなくて、あんたは大丈夫だと思っているから。 それにどうせさ、あんたが決めた事に私がどんなに口を出しても無駄だとわかっているしね。 そんな風に言ったら、 「アヤらしいね」 可笑しそうに笑っていた。 それからあまり日を置かない内に彼女は大学を去り、すぐさま籍を入れた。 それが昨年の話。 妊娠を告げられたのは今年の四月だった。 その時も私は、 「そっか」 と。 それだけ答えた。 この間と違うのは、 「おめでとう、ナナ」 この一言が加わっていただけ。 その短い言葉だけでも、 「ありがと」 ナナは満足そうに頷いてくれた。 七月に入ったばかりの現在。 あと二週間ほどで新たな命が産まれるだろう。
「眠いなら寝れば?」 タオルケットにくるまっている彼女の顔を覗き込むと、もう既にその瞳はとろんとしていて。 瞼が閉じたり開いたり。 彼女─マイはゆっくり上体を起こすと、 「アヤ、今日どうするの?」 泊まってく?と、小さい頭を傾げた。 私はベッドに腰掛けて、彼女の柔らかな黒髪に指を滑らせる。 「んーん、帰る」 マイは右手で目をこすった。 六つも年が上だとは思えないその仕草に、思わず苦笑して。 もう二、三度頭を撫でてから立ち上がった。 バッグを手にして玄関へと向かう。 「泊まってけばいいのに」 ベッドから這い出した彼女も私の背についてくる。 「明日一限からだから」 玄関前でくるりと方向転換して、彼女の方へと向き直った。 「朝早いんだよ。マイは?仕事何時から?」 私よりも10cmほど背の低いマイは、ぽすっと私の胸元に顔を寄せた。 そのまま腕が首へと回る。 私も彼女の腰の辺りで軽く手を組んだ。 「明日は休み」 「そっか。じゃあ久々にゆっくり出来るじゃん」 最近働き過ぎなんだからちゃんと睡眠摂りなよ?と。 耳元で囁くと、マイは黙って頷くだけだった。 俯いているので表情が読めない。 「…マイ?終電だからそろそろ、さ」 肩を掴んで静かに体を引き離すと、彼女は真っ直ぐに私を見つめた。 そして、ゆっくり瞼を閉じる。 いつもは時も場所もこちらの都合さえもお構いなしに、自分のしたい時にキスをしてくるマイ。 けれど、そんな彼女も別れ際だけは違う。 私からするようにと仕向ける。 そんな彼女を見て。 普段はしたい時に好き勝手してくるくせにと苦笑する反面、私の前で目を閉じてくれる事を嬉しくも思う。 安心されているのだ、と。 信頼されているのだ、と。 日常であまり表情に変化がないと言われる私だけれど、この時ばかりは頬が緩んでいるに違いない。 きっと。 そして、私も瞼を下ろして彼女の額に口付けて、湿った吐息が漏れる唇を塞ぐ。 触れるだけの、キス。 けれど重なり合った唇はとても熱くて、離れた後でも感触は残ったままだ。 「おやすみ」 表情の乏しい私なりの精一杯の笑みを浮かべて、私は彼女の部屋を後にした。 夏の夜風は生温い。 空気がぼやけていて、その曖昧な感じが嫌だった。 輪郭がしっかりとわかり、世界と自分との境い目がはっきりしている気がするから、私は真冬の凛とした気候が好きなのだ。 それでも夏は、年に一度必ず訪れるものだから。 夏が好きな彼女と何度この季節を迎えられるだろうかと、そうぼんやり考えながらも。 二十年間暑さが苦手な私は、湿った空気を思い切り吸い込んだ。 少しでも克服しようと。 連鎖的に続くだろう、いや、続けばいいと願う彼女との不確かな未来に想いを馳せて。 それは─ フィルターがかかっているようにぼんやりとしていて。 私にはうまく描く事ができなかった。
ナナの出産予定日が近付いてきた。 ささやかながら彼女の出産祝いにと、私は乳児用のよだれ掛けを買った。 この日は、マイも品を選ぶ為に付き合ってくれていて。 彼女がベビー用品コーナーを見て回る家族連れをぼんやり眺めているのを、私も横目で何の気なしに見つめていた。 その視線に気付いた彼女は、少し顔を上げて私を見ると「可愛いね、赤ちゃん」にっこり笑った。 子供好きの彼女らしい素直な発言に、子供嫌いな私は苦く笑む。 それを察していただろうけれど、マイは何も言わなかった。 しばらく母親の背に負われた赤ん坊を見つめて、 「お腹空いたね」 私の顔を覗き込んだ。 私も小さく頷いて、 「買い物済んだし、ご飯食べに行こうか」 そう言うと、すぐにマイは満面の笑顔を見せて私の前を歩き出した。 先程の母子にちらりと目を遣って、私は彼女の背を追った。 ナナは来週、母になる。
何が幸せか、何が不幸せかなんて。 そんな事は他人の物差しでは到底測れなくて。 本人が満足してりゃいいんじゃない? そう思う私だけれど。 実際は、それさえも本人である私以外にとっては「他人の物差し」だ。 だから、これが幸せだとかっていう定義や理想像があれば、人は安心するのかもしれない。 それに近い状況にあれば、あぁ今自分は幸せなんだ、ってさ。 疑う事なく思えるからね。 私は── そんな風な「当たり前の幸せ」ってやつを、無意識の内に他人から奪ってしまう事が怖いんだ。 幸せの形は様々だって、頭ではわかっているつもりだけど。 それも実は独りよがりで、私だけが幸せだと思っているのかもしれない。 だから。 言えない事も。 聞けない事も。 …沢山あるんだ。 でもさ、ナナ。 あんたが家を飛び出して、いっさいがっさい投げ出して。 その末に選んだ旦那を、愛しているなんて事は今更確認しなくても明らか過ぎて。 それを受け止めた旦那こそ、あんたを愛して止まない一人で。 愛してるなんて陳腐な言葉に思えるけれど、私はただの一つも使った事がないけれど、それでもそれしか浮かぶ言葉が見つからない。 そんな二人から産まれてくる子供は、愛される事が約束されていて、存分に愛を注がれるに決まっていて。 その子も。 ナナも。 旦那も。 それはどうしたって幸せだろう、と。 そう、思うんだ。 そう…思わせてよ。 昨日、無事に産まれたと連絡があった。 明日は午後の講義がないから、ナナの入院している病院へ顔を見に行こうと思う。 彼女に愛される子供は、女の子だった。 子煩悩になるだろう旦那の姿が自然と想像できて、ちょっと笑えた。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11626 / inTopicNo.6)  幸せの法則6 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(35回)-(2005/08/02(Tue) 15:16:37) 「珍しいね」 不意に掛けられた声に、私は「何が」と聞き返した。 「うちに来てからずっと笑ってる」 そう言って彼女は、ベッドに仰向けの私を上から覗き込んだ。 「そう?」 目だけを彼女に向ける。 「そう。何かいつもより表情が明るいもの」 言いながら、指先で私の頬を軽くつまんだ。 そしてその手を開いて頬を覆う。 熱を帯びたマイの手の平。 その温度を感じていると、彼女の顔が近付いてきた。 そのまま唇を寄せられる。 軽く、今度は薄く開いて深く。 顔を上げたマイは、私の額にキスを落とすとすぐに離れてキッチンへ行ってしまった。 気紛れだなぁ、と思う。 私達は。 手を繋いだり、抱き合ったり、ましてや愛の言葉を囁くなんて、互いと触れ合う行為があまり多くない。 それをスキンシップ不足だとは感じないけれど、時折交わす互いの温度の心地良さに、溺れる勇気がまだないのだと思う。 代わりにマイはキスをする。 唇、額、頬、首、鎖骨、手の甲── 私の体の至る所に、その痕を残す。 彼女の唇は温かくて、くすぐったくて。 唇が触れる度に「好きだ」と言われているようで。 その度に私は、嬉しい反面、歯痒くて、もどかしくて、何とも言えない気持ちになる。 それがどこから来ているものかなんて、感情の乏しい私には到底理解できないのだけど。 ─好き。 普段決して口にはしない言葉。 口下手な私達の、確かに伝わる手段なのかもしれない。 先程彼女が触れたばかりの自分の唇に、そっと指を滑らせる。 ゆっくりなぞると、わずかな湿り気が確認できた。 ごろんと大きく寝返りを打って。 欠伸を一つ噛み殺していたら、 「コーヒー飲むよね」 マグカップを二つ持ったマイがキッチンから戻ってきた。 起き上がって、その一つを受け取る。 「さっきの続きだけど、どうしたの?」 コーヒーの湯気の熱気に顔をしかめていた私は、突然の言葉に眉をひそめた。 「今日機嫌良さそうだから。いつもの仏頂面が少し緩んでる」 人差し指で私の頬をつつくマイは、ふふっと小さく微笑んだ。 「あぁ…ほら、こないだ話した友達。あいつがさ、今日産んだって。女の子」 それを聞いたマイは嬉しそうに目元を緩ませた。 「ナナちゃん、だっけ。そっかぁ。良かったね」 本当に。 嬉しそうに、嬉しそうに、笑うマイ。 私は少し冷めてくれたコーヒーを一口啜った。 「だから明日病院行ってくる」 マイもマグカップに口を付けて。 「プレゼント、忘れないでね」 私は「ん」と短く返事をして、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。 「帰る?」 バッグを手にして立ち上がった私に倣って、彼女もまた立ち上がった。 軽く頷いて、マグカップをキッチンの流しに静かに置く。 玄関でサンダルに足を通していると、 「そう言えばね。あたしの友達、同僚の女の子なんだけど、結婚するんだって」 振り返ると柔らかく微笑むマイがいた。 「この歳になると周りがどんどん結婚してくなぁ」 もう二十六か、と。 息を吐き出しながらぽつりと呟いて。 「アヤの友達は出産したでしょ。嬉しい事が続くね」 幸せな話は聞いてて楽しくなるよね、目を細めて笑った。 私は─ 答える代わりに、彼女の小さい頭を引き寄せて唇を重ねた。 そう言えば、二人ともブラックだったっけ。 交わしたキスは、苦味ばかりが口の中に広がった。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11627 / inTopicNo.7)  幸せの法則7 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(36回)-(2005/08/02(Tue) 15:17:20) 受付で部屋番号を聞いて廊下を辿っていると、目当ての場所はすぐに見つかった。 軽くノックをした後にすぐ返事が聞こえたので、静かにノブを回す。 ベッドに腰掛け、まっさらな衣に身を包んだ赤ん坊を胸に抱くナナがそこにいた。 「アヤ、来てくれたんだ?」 すっかり母の顔をして、ナナは私に微笑みかける。 「もう、同じ部屋なの?」 軽くぐずっている赤ん坊に目を向ける私の視線に気付き、あぁ…と、ナナは小さく頷いた。 手の中の我が子に目を落とし、優しく揺すりながらあやす。 「タイミング良かったよ、アヤ。今ちょうど新生児室から来たところ」 母親の顔で笑った。 心臓の辺りが、ひどくざわつく。 彼女に気付かれぬよう、深呼吸を一つ。 手にした袋をテーブルの上に置いた。 「これ、お祝い」 「何?」 「や、大した物じゃないよ。後で開けてみて」 ナナは私をじっと見つめ、 「うん、ありがとう」 大きく頷いた。 随分穏やかに笑うようになったものだ。 まじまじと見つめる私にナナは怪訝そうに眉根を寄せたので、思ったままを告げてみた。 すると彼女は、 「それはアヤの方でしょー」 可笑しそうに笑い飛ばした。 「出会った頃より良い顔するようになったよね」 再び赤ん坊に目を落とし、優しいトーンで話し出す。 私は黙って、静かに彼女の声に耳を傾けた。 「目が、さ。優しくなった。もっと目付き鋭かったし、大体アヤがお祝い持ってお見舞い来るなんて考えられないよー」 子供嫌いでしょう?と。 私に目を向け、悪戯っぽく微笑む。 「どんな心境の変化か知らないけど。今のアヤの方があたしは好きよ」 私は顔を伏せて、「…そりゃどうも」ぼそぼそと呟いた。 「ほら、こーゆーのも。前だったら、変な事言うなとか、気持ち悪いって答えてたよ。毛嫌いしてたじゃない」 「そう、だっけ」 「そうよ」 彼女は得意気に鼻を鳴らした。 「最近はちゃんと人と付き合えてるみたいだし」 ねぇ?と、彼女が私に向ける眼差しはとても優しかった。 「アヤは人と距離を置く所があるから。それでも今は人間関係うまく築けてる気がする」 「…そう見える?」 喉の奥がひどく渇く。 「見える」 ナナは、恋人とも友達ともその関係の相手を限定していない。 そればかりか、私が「彼女」と付き合っている事も知らないだろう。 それでも何故かわかっている気がした。 口の中は既にからからで、唾はあまり出なかったけれど。 私は小さく口を開いた。 「大切な人が、いるんだ」 ナナは相変わらず穏やかな表情のまま。 「大事だと思う。その人」 喉が熱い。 それでも私は言葉を紡いだ。 そう、と。 また彼女は微笑んだ。 「それじゃあその人の影響が大きいんだ」 「そうかな」 「そうよ」 「そう、かな」 それ以上彼女は何も言わなかった。 何も聞かなかった。 それが私には楽だった。 そして、ナナはゆっくりと立ち上がると、赤ん坊を抱えたまま私の方へと歩み寄った。 「抱いてみる?」 差し出された彼女の子をまじまじと見て、私は明らかに困惑した。 「大丈夫。怖くないよ」 彼女の顔を見る私は、どれだけ情けない表情をしていただろう。 けれど目の前の赤ん坊は、心から安心しているように寝息を立てていて。 私は恐る恐る腕を回した。 ずっしりと、確かな重み。 生きているという、この熱さ。 心臓の鼓動が微かに聞こえて、小さい生命を主張していた。 ナナは私に何も言わない。 ただ私とこの子を見守っているだけ。 優しい瞳で。 私は腕に収まる赤ん坊をじっと見つめた。 愛されて生まれてきた子。 愛される為に生まれてきた子。 抱きしめる腕に、わずかに力がこもる。 「私、あんたのとこに生まれてきたかった…──」 小さく吐き出された言葉に、彼女はやはり何も言わず、静かに頭を撫でてくれた。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11628 / inTopicNo.8)  幸せの法則8 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(37回)-(2005/08/02(Tue) 15:18:11) 父親がいない私は母親との母子家庭で。 要らない子だと、産むんじゃなかったと、否定され罵られ。 そんな風に育った私は、高校を卒業するとすぐに家を出た。 奨学金で大学に通い、バイトをして生活費を稼ぐ。 決して楽ではなかったけれど、それでも心は苦しくなかった。 そんな私と、同じように家庭環境に問題を抱えていたナナ。 事情は異なるけれど境遇の親近感からか、馬が合うってやつだろうか、歩み寄るのにそれほど時間は要さなかった。 私の髪を梳くナナは、まるでぐずる子供を宥めるようだった。 優しい、母の手。 思わず眼の奥が痛む。 慣れない感覚に戸惑う私に、彼女は真っ直ぐな視線を浴びせた。 奥底まで、全て見透かされているような瞳。 そしてナナはゆっくりと形の良い唇を開いた。 「アヤのお母さんがアヤを産んでくれて良かった」 「──…え?」 きょとんとする私に、彼女は続ける。 「だって、そのお陰であたし達は出会えたから」 一呼吸置いて。 そして── 「生まれてきてくれてありがとう」 本当に、優しい笑顔を浮かべて。 「アヤが生まれてきてくれて、あたしは嬉しい」 ナナは私にそう言った。 しばらくして私の腕の中にいる赤ん坊が泣き出すまで、私は何も言う事が出来ずに立ち尽くしていたんだ。 言葉にしようとすれば、全てが陳腐になってしまうような気がしたから。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11629 / inTopicNo.9)  幸せの法則9 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(38回)-(2005/08/02(Tue) 15:18:57) 「今オムツ替えるからねぇ」 ぐずり出した赤ん坊を私の手から受け取って。 すぐに泣き声の原因に気付いたナナは、ベビーベッドに我が子を寝かせて素早くオムツを取り替え始めた。 「アヤの大切な人もね、きっとそう思ってるよ」 手を動かしながら、ナナは言う。 「アヤが生まれてきた事に感謝してる」 彼女の目線の先が赤ん坊に向いているのを確認して、私は軽く目を閉じた。 それで、十分だ。 それだけで、私はやっていける。 もう私は満足だよ。 心の中で小さく呟き、再びゆっくり目を開けると。 ナナの目は私に向けられていた。 私はにっこり微笑んでみせる。 「そろそろ帰るよ」 そう言うと、彼女もにっこりと笑ってくれた。 彼女に背を向け、ドアノブに手を掛けようとすると後ろからナナの声。 「夕方ね、母さんが来るの」 思わずそちらへ振り返る。 「──…旦那の?」 「…ううん、あたしの」 ナナは、勘当されているはず。 駆け落ち同然だったんだ。 家とは絶縁も同然じゃ…? 間抜けに口を開いている私の様子に、言いたい事を察してくれたのか。 ナナがゆっくりと口を開いた。 「おばあちゃんがいないと可哀相でしょ?この子が」 そして優しい眼差しを子に向ける。 「お腹が出てきてからね、一回実家に戻ってじっくり話し合って来たんだ。今じゃ母さん、この子が生まれてくるのすごい楽しみにしてた」 もうすぐおばあちゃん来るからねー、赤ん坊に笑いかけるナナ。 「一応和解、したのかな?でも、あたしと母さんの間に何かあってもこの子に罪はないから」 ね?と私を見るナナに、私も頷きで返した。 「そうだね。嬉しい事は祝福された方がいい」 幸せは、分かち合う方がいいんだ。きっと。 私の言葉にナナは穏やかに笑んだ。 やっぱり変わったね、と。 「眉間の皺がなくなった」 そう言って、細い指先で私の眉の合間をぐいっと押した。 帰り間際に名前を聞いた。 もう既に決まっていると言う。 『ナツキ』 夏に生まれたこの姫は、父も母も虜にするほどの愛されようで、確かに"姫"と呼ばれるに相応しい。 ねぇ、夏姫。 君が大きくなって、 …そうだな、言葉が話せるようになった頃。 もしも幸せだと感じているのなら。 君の両親に言って欲しい事がある。 ありがとう。って。 生まれた事に。 愛される事に。 ねぇ、夏姫。 きっとだよ? 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11630 / inTopicNo.10)  幸せの法則10 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(39回)-(2005/08/02(Tue) 15:19:38) 私はもう十分過ぎるほど与えてもらった。 だからもう、いいんだ。 これ以上を望んだらきっと罰が当たるから。 ナナのお見舞いへ行った数日後、彼女の部屋へと向かう中そんな事を反芻していた。 「赤ちゃんどうだった?可愛かった?」 あたしも見たいなー、言いながらマイは湯気の立つマグカップを差し出す。 私はそれを受け取ると、ブラックのままのコーヒーを啜った。 やはりまだまだ熱くて、思わず顔をしかめる。 「母子共に健康。女の子だから旦那メロメロ」 カップの中のコーヒーを冷ましながら端的に答えると、 「そうなんだぁ。うん、そうだろうねぇ。お父さん、女の子なら可愛いだろうねぇ」 マイもふぅふぅとコーヒーに息を吹きかけながら、言う。 「赤ちゃんかぁ…」 小さく漏らされた言葉の後に、私はまだ熱さの残るコーヒーを一口含んで。 「もう私と居ない方がいい」 じんわりとした火傷に似た痛みが、舌に広がる。 彼女に目を遣ると、マグカップを両手で持ったまま私をじっと見つめていた。 「──どういう意味?」 怒りも困惑も悲しみも、感情の色が見えない淡々とした口調。 「そのままだよ。付き合いをこのまま続けてても先は見えないんじゃないの?って事」 私も同じように、返す。 「あたしと別れたい?」 彼女は静かにカップをローテーブルの上へと置いた。 コトリ、と。 その音がやけに耳につく。 「別れたい…わけじゃない」 私はカップに目を落とした。 中は黒く染まっていて、白い湯気が視界を歪める。 「じゃあ何で?」 私のすぐ前まで近付いていたマイは、両手で私の顔を挟んでぐいっと自身の方を向かせた。 容赦なく、彼女の視線が私の瞳を奥まで射抜く。 「私はあんたに、何も与えてあげられないから」 私も彼女の瞳を逸らす事なく、真っ直ぐ見据えて言葉を放った。 「…え?」 両頬に込められた彼女の手の平の力がわずかに緩む。 「私はあんたに…結婚生活も、子供も。安定した何かとか、残せる何かを、何一つあげられない」 緩められた手から抜け出して、私は俯いた。 はぁ、と。 小さく息を吐き出す。 異性を愛してきたマイ。 異性も同性も愛せる私。 私達は、互いを欲した。 けれど、元々は異性愛者の彼女だ。 男を愛せるならば、私との関係なんて、こんなに不毛な事はない。 私は結婚にも子供にも興味はないけれど。 マイは違う。 違うんだ。 あんたの隣は心地良いから、正直手放すのは惜しいけどね。 私は十分、あんたにもらったものがある。 それで大丈夫だと、これから先やっていけると、そう確信したから。 独りになっても…うん、それほど孤独を感じずに済むと思う。 返せる何かがないから…私にはこんな方法しか思いつかない。 『別れよう』 その一言を頭の中で繰り返して。 わずかに口を開きながら、俯いた顔を上げようとすると。 ─バシッ 乾いた音と共に、ジンジンとした熱さが両頬に響いた。 彼女の手が先程より強く、私の顔を挟んでいて。 強引に上げられた私の顔は、彼女のすぐ目の前にあった。 「ばーか」 少しばかり怒ったように彼女は言った。 私はきょとんとする。 「ばか。ほんとにばか。アヤってさ、頭の回転早いくせに、肝心なところで大バカ」 ぐっと、両手に力が込められる。 「あたしはね。結婚も、子供も、アヤにそんなものは望んでないよ」 険しかった彼女の目元が、ふっと緩んだ。 「側に居てくれればいいの。それだけでいいの。一緒に居るのが自然に感じたの」 普段あまり触れ合わない彼女が、私の頭に腕を回して抱きしめるように胸元へと引き寄せた。 「望む事はそれだけ。あたしはあなたを選んだんだから」 私の髪を撫でる指は優しくて、顔を埋めた胸からは彼女の心音が直接響いてきた。 「アヤと出逢えて、あたしは嬉しい」 ──…降り注がれた言葉に、 じんわりと込み上げてくる熱さがあって。 溢れるものの正体に戸惑いはあっても、 それは決して嫌悪するものじゃないとわかったから。 ─私は初めて泣いた。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■11632 / inTopicNo.11)  幸せの法則11 ▲▼■ □投稿者/ 秋 一般♪(40回)-(2005/08/02(Tue) 15:20:48) 「最近様子が変だったのって、そういう事?」 私の頭を抱きしめたまま、マイはくすくすと笑った。 時折髪の毛先が彼女の指に遊ばれているのがわかる。 私はそれをされるがままにして。 マイの背中に腕を回した。 彼女もまた、自身の腕に力を加える。 こんな風にしっかりと抱き合ったのはどれくらい振りだろう。 マイの心臓の鼓動が、私に落ち着きを取り戻していた。 しばらくして。 マイはゆっくりと体を離し、腕を私の肩に乗せたまま覗き込むようにして私の目を見た。 「大体ね。アヤみたいなひねくれ者と付き合える人間が、あたしの他にいると思う?」 にっと笑う。 「アヤはまだ二十歳のくせに達観しちゃってるのよ。大人びてるっていうより偏屈なのね。可愛げのない」 「…マイが二十六の割に幼すぎるんだよ」 「そーゆーとこが可愛くないのっ」 彼女は唇を尖らせた。 そして、すぐに口元を緩めると。 「人に対して不器用だから、そんなんじゃ一人になっちゃうでしょ」 私の目元の涙を人差し指で拭って、 「だからあたしが一緒に居てあげる」 ─ずっとね。 そう柔らかく微笑んだ彼女に、また目が熱くなって。 そんな私に、彼女は苦笑した。 そして私の額に口付ける。 そのまま頬へとキスをして。 一度顔を離し、互いにじっと見つめ合う。 再び、彼女の顔が寄せられて─ ゆっくりと視界が狭まってゆく中。 私は彼女と築くこの先を、何の恐れも抱かずに思い浮かべる事ができたのだ。 そして私は─ 今日もまた、 幸せの数だけ瞼を閉じる。
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